朝鮮王朝は1392年に始まってから、王の後継者をめぐって骨肉の争いがあったとはいえ、対外的に平和な日々を過ごしていました。1592年といえば、創設から200周年で記念すべき年だったのですが、お祭り気分は吹っ飛んで存亡の危機を迎えます。豊臣軍が攻めてきたからです。 ソウル中心部にある李舜臣の像 強化し…
燕山君(ヨンサングン)を廃位にするためのクーデターで中心的な役割を担ったのが朴元宗(パク・ウォンジョン)という高官でした。彼には、燕山君に仕返しをしなければならない怨みがありました。 写真=植村誠 怨みを買いすぎた王 朴元宗の姉は、9代王・成宗(ソンジョン/燕山君の父)の兄にあたる月山大君(ウォルサ…
写真=植村誠 廃妃になった斉献(チェホン)王后は、実家で質素に暮らしていました。王宮で自分が仕出かしたことを反省する気持ちも日増しに強くなりました。9代王の成宗(ソンジョン)も、王宮を追放された斉献王后のことが気になっていました。 賜薬とは? 「もし改心しているなら、もう一度王宮に戻してあげようか……
朝鮮王朝は1392年に建国されました。初代王・太祖(テジョ)となったのが李成桂(イ・ソンゲ)です。彼は、高麗王朝の武将でしたが、最高実力者となって高麗王を追放して自ら新しい王朝を開きました。 写真=植村誠 8人の息子 朝鮮王朝を作った太祖には妻が2人いましたが、故郷にいたのが神懿(シヌィ)王后です。…
貞明公主は、クーデターの直後には結婚できたが、20歳だったので、当時としては遅い結婚だった。当時のしきたりでは、王女は結婚したらすぐ外に出ることになっているので、外に大きな屋敷を構えた。 無能な王 異例だったのは、全羅道(チョルラド)や慶尚道(キョンサンド)に莫大な土地を持ったことだ。朝鮮王朝で一番…
綾陽君は仁穆王后の怒りがあまりに大きいので、その場を退散して、また改めて出掛けた。仁穆王后も少し頭を冷やしたようで、「大義名分を出すには条件がある。あの化け物の首を取ってまいれ」と言った。 「首を取ってまいれ」 綾陽君は仁穆王后にこう答えた。 「いやいや、それは絶対にできません。先王の首をはねるよう…
光海君は「明は滅亡して後金の時代になる」と予測していた。「明に肩入れするとうちの国もやられてしまう」ということで、やむを得ず援軍を出すときは最小限にして、後金に対して「事情があって明に援軍を出していますが、そちらに逆らう気はないですから」と言った。二股外交という巧みな外交を展開した結果、後金は朝鮮半…
写真=韓国MBC『奇皇后』公式サイトより 1333年、貢女(コンニョ/高麗王朝が差し出した女性のこと)として、中国大陸を支配する元に渡った奇皇后は、その後はどのようにして元の皇室で力をのばしたのだろうか。元に入った奇皇后のその後の人生を追ってみよう。 皇室付きの女性として…
13世紀、強大国となったモンゴルは、高麗王朝に朝貢を求めてきた。高麗王朝がこれを拒むと、1231年に大軍で攻めてきた。当時のモンゴルは最強の軍事力を持っていた。高麗王朝は頭を下げて必死に和睦を結んだが、以後もモンゴルはしつこく朝貢を強要してきた。 元が貢物を要求 1232年、高麗王朝は開城(ケソン)…
中国大陸では、すでに元の国力が衰退していた。各地で農民たちの反乱も起き、元はまともに鎮圧する力も失っていた。このように元が弱くなると、高麗王朝での奇一族の立場もガラリと変わっていった。 わが子の皇位継承に執着 高麗王朝31代の恭愍王(コンミンワン)は様々に画策し、奇轍(キ・チョル)が反乱の汚名を着せ…