【時代劇が面白い】王朝盛衰史6「端敬王后を廃妃にした中宗」

燕山君(ヨンサングン)を廃位にするためのクーデターで中心的な役割を担ったのが朴元宗(パク・ウォンジョン)という高官でした。彼には、燕山君に仕返しをしなければならない怨みがありました。


写真=植村誠

怨みを買いすぎた王
朴元宗の姉は、9代王・成宗(ソンジョン/燕山君の父)の兄にあたる月山大君(ウォルサンデグン)に嫁いでいましたが、この姉を燕山君が犯してしまい、彼女は自決してしまいました。
月山大君といえば燕山君にとって伯父にあたるわけで、その妻を犯すというのはあまりに非道です。それほど燕山君は常軌を逸していました。
朴元宗が中心となってクーデターを起こします。燕山君は多くの人の怨みを買っていますから、彼を守ろうという人はほとんどいません。クーデター軍が王宮にやってくると、護衛兵はみんな逃げてしまいました。
中には、あまりにあわてて逃げて便所に落ちた人までいた、と「朝鮮王朝実録」に書いてあります。
ただし、いくらひどい王でも追放するとなると大義名分が必要になります。そこでクーデター軍がかつぎあげたのが、燕山君の異母弟の晋城大君(チンソンデグン)です。彼も燕山君から相当にいじめられていました。

晋城大君の協力をとりつけようとしてクーデター軍が彼の屋敷に行ったところ、本人は「兄がついに殺しにきた」と早とちりして自決しようとしました。妻が必死に止めた結果、何とか事なきを得ました。
晋城大君はクーデターに反対しました。
「兄を追放して王になれば、世間からなんと言われるかわからない」
そう言って晋城大君は即位することを拒否します。それでも説得されて最後にようやく承諾し、クーデターの成功後に彼は11代王・中宗(チュンジョン)になります。
王宮を追われた燕山君は島流しとなり、わずか2カ月で病死してしまいます。
あまりにあっけない死。果たして何があったのでしょうか。一応は病死と伝えられていますが……。
一方、中宗は周囲にかつがれて王になったので、クーデターを成功させた人たちに頭があがりません。結果的に、自立性に乏しい王でした。高官たちは中宗に対して「妻の端敬(タンギョン)王后を離縁してほしい」と迫ります。
理由は、端敬王后が燕山君の妻の姪であり、父親も燕山君の側近だったからです。このように、端敬王后の親戚には燕山君と関係が深い人が多かったのです。

中宗は承服できません。
「勘違いして自決しようとしたときに助けてくれた愛妻と、なぜ別れなければいけないのか」
そんな心境だったことでしょう。
中宗は国王なのですから、臣下が何を言ってきてもつっぱねればよかったのです。ところが、中宗は気が弱いというかはっきりしない性格で、最後は端敬王后の廃妃に同意してしまいます。
それでも中宗はメソメソするばかりです。王宮の高い場所に立ち、端敬王后が住むあたりを見ては、ため息をついていました。そのことが都で噂になり、端敬王后の耳にも入ります。そこで彼女は、住まいの裏の岩山にかつて自分がよく着ていた赤いチマ(スカート)を干し、“私はここで元気に暮らしています”と伝えました。これは「赤いチマ岩の伝説」とよばれ、韓国でも夫婦愛を示すよい話といわれていますが……。
もとはといえば、中宗が夫としてだらしないから起こった話です。
そんな中宗は端敬王后を離縁したあと、二番目の正妻として章敬(チャンギョン)王后と再婚しますが、彼女は息子を産んですぐに亡くなってしまいます。

そこで、中宗は三番目の王妃として文定(ムンジョン)王后を迎えます。これが朝鮮王朝にとって不運でした。なにしろ、文定王后というのは、朝鮮王朝でも一番の悪女といえるような人で、平気で非道なふるまいを繰り返しました。中宗が見て見ぬふりをしたのが、さらに文定王后を図に乗せたのですが……。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

コラム提供:韓流テスギ

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