申叔舟(シン・スクチュ/1417~1475年)は、4代王・世宗(セジョン)に才能を見込まれ、ハングルの創製にも重要な役割を果たした。しかも、中国語や日本語に堪能で、1443年には外交使節として来日して室町幕府と交渉を行なっている。そのときの旅程は後に「海東諸国紀」として執筆された。名著のほまれが高い…
一度は廃妃になりながら1994年に王妃に復帰した仁顕(イニョン)王后だったが、長く病に苦しみ1701年8月14日に亡くなった。その後に張禧嬪(チャン・ヒビン)が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していたことが発覚し、粛宗(スクチョン)は激怒した。 後悔を残さないためにも 粛宗は張禧嬪を厳罰に処す…
清での8年間に及ぶ人質生活を終えて、1645年2月に母国に帰ってきた昭顕(ソヒョン)世子。しかし、わずか2カ月で亡くなってしまった。あまりに不可解な急死。毒殺を疑われるのも当然だった。 歴史書も毒殺疑惑を提起 朝鮮王朝の正式な歴史書の「朝鮮王朝実録」。1645年6月27日の項では昭顕世…
張緑水(チャン・ノクス)、鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)、張禧嬪(チャン・ヒビン)……「朝鮮王朝三大悪女」と呼ばれた3人だ。しかし、朝鮮王朝には他にも恐ろしい悪女がいた。今回は「呪いの三大悪女」を紹介しよう。 まさに因果応報 「呪いの三大悪女」の1人目は貴人(キイン)・趙氏(チョシ)だ。 彼女は16代…
518年も続けば朝鮮王朝には数多くの王女がいたが、敬恵(キョンヘ)王女ほど波瀾万丈の生涯を送った王女は他にいないのではないか。敬恵王女は5代王・文宗(ムンジョン)の娘として1435年に生まれたのだが……。 波瀾万丈の人生 「朝鮮王朝の王女の中で一番美しかった」と評された敬恵王女。本来ならば、幸せな一…
死六臣とは、甥をおどして王座を強奪した7代王・世祖(セジョ)に対抗して王位奪還を計画した6人の高官をさしている。計画が失敗して全員が刑死・獄死したが、忠義に殉じた志は後世で称賛を浴びた。まさに“忠臣の鑑”であった。 国王を罵倒した男たち 死六臣の中心人物となったのは成三問(ソン・サムムン)と朴彭年(…
朝鮮王朝の光海君(クァンヘグン)の時代に暗躍した金介屎(キム・ゲシ)。彼女は「悪の女官」の代名詞である。もともと、幼い頃に王宮に入って見習いの女官になった女性であった。 常に裏で動いた 成人後の金介屎は、14代王・宣祖(ソンジョ)に直接仕えた。文書の扱いが巧みなことを評価されたのだ。それだけ頭脳が明…
朝鮮王朝時代の後期になるにつれて、王の子供がどんどん少なくなる傾向があった。27人の王を比較してみると、前半の14代王・宣祖(ソンジョ)までは王の子供が178人いたのに対し、15代王の光海君(クァンヘグン)以降は全部で57人と減っている。 名君は子供が多い 王の子供が少なくなったあおりで、王の遠縁の…
朝鮮王朝時代に王宮で起こった奇怪な事件として有名な「灼鼠(しゃくそ)の変」。この事件は韓国時代劇でも何度か取り上げられたが、どの作品でも文定(ムンジョン)王后と鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)が共謀して起こしたという筋書きになっていた。 世子の誕生日の出来事 「灼鼠(しゃくそ)の変」は1527年に起こっ…
時代劇『トンイ』のメインキャストの4人は、主人公のトンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)、19代王の粛宗(スクチョン)、粛宗の正室の仁顕(イニョン)王后、そして、悪女として名高い張禧嬪(チャン・ヒビン)である。 1680年から1689年まで 『トンイ』の主要な登場人物の年齢を見てみよう。 淑嬪・崔…