20年の歳月
李秀賢さんは来日して1999年8月に日本語学校に入学願書を出している。その「就学理由」という欄にこう書いている。
「学校で第二外国語として1年半くらい日本語を勉強してみたら、もっと日本語を詳しく勉強したいと思いました。そして、直接日本を体験してみたくなり、日本語の研修を決意しました。日本語学校の研修を通して、日本で見て聞いて感じたことを土台にして、韓国または日本の貿易会社に入社し、両国の交易に関する第一人者になりたいと思います」
強い意欲をもって日本語を学んでいた李秀賢さんだったが、「両国の交易に関する第一人者になりたい」という夢を実現することはできなかった。
母親の辛閠賛(シン・ユンチャン)さんは李秀賢さんが亡くなってから10日後に私にこう語った。
「私は息子にいつも言っていました。どこへ行っても必要な人間になるように……。困っている人がいれば助けてあげるように、と。そう言ってきました」
「何回生まれても普通の人間ができないことを、息子はたった1回の短い人生でやりとげたんです。でも、秀賢が長生きしてくれればどんなに良かったか……」
李秀賢さんが亡くなって20年。彼はみんなの心の中に生きている。
文=康熙奉(カン・ヒボン)