1764年に江戸時代で11回目にあたる朝鮮通信使の来日があったが、以後はまったく途絶えてしまった。そこには一体、どんな事情があったのだろうか。 松平定信の意向 徳川将軍が代わる度に幕府が対馬藩を通して朝鮮通信使の来日を要請するのが通常の手続きだった。 1787年に11代将軍・徳川家斉が…
フェリーも待機中だった その日は港近くの旅館に泊まった。韓国の旅館は一般的に素泊まりなので、食事は外の食堂へ出かけることになる。港の周辺を散歩しながら、水槽の中の魚が最も生きがよく見える食堂に入った。50代の夫婦が切り盛りしている店で、特に奥さんがてきぱきと動いていた。 …
地元の人たちの会話を羨ましい気持ちで見ていた。私は、近所の道ではいつも俯きがちに歩いている。「顔見知りに会っても気づかなかったことを装う」という気持ちがどこかにあるからだ。挨拶することが気恥ずかしい。そんな面倒くさがり屋の私からすれば、島の人たちはなんと自然で温かいことか。道端で人と会うことが楽しく…
朝鮮通信使の宿舎となった鞆の浦(広島県)の福禅寺 朝鮮通信使が来日した年を見てみると、順に1607年、1617年、1624年となっている。この3回の来日は、戦時中に日本に連れて来られた人々を帰国させることが主たる目的になっていて、「刷還使」という役割を担っていた。 使節の…
菜の花が満開だった 見学料を取るわけでもなく、貝殻細工を販売しているわけでもない。自分で作った数多くの貝殻細工を棚に飾ってあるだけだ。それを、ブラリとやってきた旅行者に気さくに見せてくれるという、この家の度量に感心した。 どこか懐かしい 嫌な顔一つせずに招き入れてくれた貝…
静岡市にある徳川家康の像 徳川幕府が朝鮮王朝との外交関係の再開を申し出ると、朝鮮王朝は最終的に2つの条件を対馬藩に通達した。1つは徳川家康自らが国書を提出して関係修復を願い出ることで、もう1つは、先の戦で王家の陵墓を荒らした犯人を突き出すことだった。 朝鮮王朝側の事情 対馬藩はあせっていた。早く朝鮮…
軍の訓練所でいくら厳しい訓練であり不条理な扱い(非人間的)を受けても、その中から芽生える連帯感や団結心と言う同志的感覚が生まれたのはこの上ない喜びでした。 特に私はこの国に来て、大学周辺や会社など特定の層、限られた人間しか付き合ってこなかったのですが、ここ軍隊は裏町で与太ってたチンピラから大会社のト…
1598年11月、最後に島津軍がかろうじて対馬にたどりつき、豊臣軍は完全に日本に引き揚げてきた。7年近くにわたった戦乱の影響はあまりにも大きかった。朝鮮半島は荒廃し、多くの人命が奪われた。 窮地に陥った対馬 戦乱の中で捕虜として日本に連れていかれた人も相当数にのぼった。そのほとんどが農…
貝殻細工を見てまわる ちょうど空車のタクシーが通りかかった。なんというタイミングの良さ。離島どころかソウルにいるかのような便利さだ。運転手さんは30代の男性で、優しい目をしていた。口調もていねいで、低い声で「どちらまで行かれますか」と聞いてきた。私は相性の良さを感じ、「景色のいいところ…
豊臣秀吉の大陸制覇の野望を早くから察知していた明は、豊臣軍の攻撃を知ってからもしばらく様子をうかがっていたが、ついに援軍を出した。しかし、1592年7月に平壌(ピョンヤン)で豊臣軍を駆逐しようとした明は、逆に敗退を喫した。 碧蹄館の戦い 明は日本の兵力をあなどっていて、武器や兵士の数が…