1764年に江戸時代で11回目にあたる朝鮮通信使の来日があったが、以後はまったく途絶えてしまった。そこには一体、どんな事情があったのだろうか。
松平定信の意向
徳川将軍が代わる度に幕府が対馬藩を通して朝鮮通信使の来日を要請するのが通常の手続きだった。
1787年に11代将軍・徳川家斉が襲職したときも、朝鮮王朝では近いうちに通信使の派遣要請が幕府から来るだろうと予測していた。
しかし、そんな動きは一向になかった。
慣例と違うことを不可解に思った対馬藩は、幕府に対して「朝鮮通信使を招聘する件はいかなる状況でございましょうか」とさぐりを入れている。しかし、幕府の態度がそっけなかった。「いつ招聘できるかわからない」という返事だった。
なぜ慣例が破られたのか。張本人は1787年6月に老中筆頭となった松平定信であった。彼は8代将軍・徳川吉宗の孫にあたるが、それよりも倹約を徹底させた「寛政の改革」を主導した人物としてよく知られている。
庶民の服装にまで質素を押しつけた“ケチの権化”のような松平定信。彼は、経費がかかりすぎる朝鮮通信使の招聘など考えていなかった。
「吉宗様の時代は朝鮮通信使の招聘に幕府は百万両も負担した。当時は年間予算でも80万両だったというのに……」
松平定信の頭の中には、そんなソロバン計算が働いていたのかもしれない。
松平定信が朝鮮通信使の招聘に消極的だった理由がもう1つあった。当時の著名な儒学者だった中井竹山の思想に影響されていたのである。
1789年に中井竹山が松平定信に献じた『草茅危言(そうぼうきげん)』の中に“朝鮮の事”という項目がある。
主たる内容は、「神功皇后の遠征以来、朝鮮は我が国に服従・朝貢していた。今は属国ではないが、莫大な経費を使って応接するには及ばない。慣例で使節が来ることを拒めなければ、沿道の諸大名の負担にならないようにすべきだ」というもので、朝鮮通信使には無礼が多いと断じて使節を対馬で応対する“易地聘礼(えきちへいれい)”を提案していた。
この主張には“神功皇后の遠征”が持ち出されている。中井竹山は『日本書紀』の記述を鵜呑みにしていた。
確かに『日本書紀』における神功皇后の章には、「神功皇后が神のお告げを受けて新羅に遠征。その地を征服したのちには百済と高句麗も服属させた」という内容の記述がある。おそらく時代背景は3世紀の設定なのであろう。
しかし、事実とは到底思えない。現代では“神話”とみなすのが一般的だ。
いかに江戸時代とはいえ、中井竹山が『草茅危言』の中で神功皇后の話を根拠に朝鮮半島を見下し、その説をまた松平定信が信じていた。
そのような空気が江戸時代後期の日本に芽生えていたのは確かだ。おりしも、本居宣長が『古事記』『日本書紀』の中に日本人が見いだすべき真実があると説いていた時期だった。他国を卑下して自国のすばらしさを強調する手法が、ときに勢いを得る場合がある。時代の閉塞感に行き詰まったときが多いのだが……。
「できれば朝鮮通信使を呼びたくない。どうしても呼ばなければならないなら、せめて対馬で応対を終わらせたい」
そう感じていた松平定信は、朝鮮通信使招聘の件を易地聘礼にすることを対馬藩に指示した。
しかし、朝鮮王朝が承諾しなかった。「前例を踏襲することが儒教的な秩序を守る根本」と頑迷に信じきっていた朝鮮王朝は、原則を変更することを極端に警戒した。
意見が対立した徳川幕府と朝鮮王朝。問題がこじれている間に、張本人の松平定信が1793年7月に老中筆頭を解任された。「寛政の改革」の評判が悪すぎたのだ。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:韓流テスギ