粛宗(スクチョン)と淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の出会いの背景には派閥闘争がからんでいました。当時、政治的に西人(ソイン)派と南人(ナミン)派が激しく争っていました。その中で、西人派は仁顕(イニョン)王后を支持し、南人派は張禧嬪を後ろで支えました。 粛宗の気持ちが急に変化 仁顕王后が追放されたこと…
仁穆(インモク)王后は14代王・宣祖(ソンジョ)の二番目の正室である。宣祖と側室の間に生まれた光海君(クァンヘグン)にすれば継母にあたる人だ。それなのに、光海君と仁穆王后はなぜ激しく対立したのだろうか。 世子の決定 14代王・宣祖(ソンジョ)は異質な王であった。 それ以前の13人の王が嫡子(王の正室…
『トンイ』と『イ・サン』が描く時代を時系列に沿って年表で見る記事の2回目。いよいよ、物語は張禧嬪(チャン・ヒビン)が死罪になる事件を扱っていく。 激動の時代を描く 淑嬪・崔氏が王子を産み、粛宗(スクチョン)の愛情はますます淑嬪・崔氏に注がれるようになった。そして、王宮を揺るがした「1701年」を迎え…
「非道な王」として悪評が多かった7代王・世祖(セジョ)の妻が貞熹(チョンヒ)王后である。彼女は1418年に官吏の娘として生まれた。果たして、どんな人生を歩んだのであろうか。 夫を支えた妻 貞熹王后は1428年、ちょうど10歳のときに、聖君・世宗(セジョン)の二男であった首陽大君(スヤンデグン)と結婚…
1689年4月、粛宗(スクチョン)は突然高官を集めて、「仁顕(イニョン)王后はあまりにも嫉妬が強すぎる」と露骨に非難しました。朝鮮王朝時代には、地位のある人が妾を持ったりしました。それでも正妻は絶対に嫉妬してはいけないという戒めがありました。なにしろ、当時の法律によると、夫が抱えている妾に嫉妬しただ…
1603年、宣祖(ソンジョ)の継妃であった仁穆(インモク)王后が王女を産んだ。それが貞明(チョンミョン)公主である。仁穆王后は続いて1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んでいる。貞明公主に弟ができたのだ。 長く苦しい監禁生活 貞明公主の父の宣祖は1608年に亡くなってしまった。そのとき、貞明…
韓国時代劇の名作として名高い『トンイ』と『イ・サン』。この2つのドラマの流れを時系列に沿って年表で見てみよう。まずは、『トンイ』の主要な登場人物の年齢を見てみよう。 4人の登場人物 『トンイ』の主人公である淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏、粛宗(スクチョン)、正室の仁顕(イニョン)王后、側室の張禧嬪(…
ドラマ『ヘチ』で、チョン・イルが扮したのが朝鮮王朝の21代王・英祖(ヨンジョ)である。彼の母である淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)は1718年に亡くなり、父の粛宗(スクチョン)も1720年に世を去った。そして、張禧嬪が産んだ王子が20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。 衝撃的な告発書 景宗には…
朝鮮王朝の法律に沿って王が決定されたように、王妃もまた厳格な法を適用されて決められていました。それだけに、王妃を廃妃にするのは容易ではないのですが、実際には多くの王妃が廃妃になっています。 理不尽な廃妃 一番悲惨なのは、夫の廃位にともなって廃妃になったケースです。10代王・燕山君(ヨンサングン)の正…
朝鮮王朝には27人の国王がいたが、その中で在位中に強制的に退位させられた人が5人いる。それは、定宗(チョンジョン)、端宗(タンジョン)、燕山君(ヨンサングン)、光海君(クァンヘグン)、高宗(コジョン)である。 最初の3人 ◆定宗(チョンジョン) [1357~1419年] 2代王。在位は1398~14…