14代王の宣祖(ソンジョ)は、正妻の懿仁(ウィイン)王后が1600年に亡くなると、2年後には50歳ながら18歳の仁穆(インモク)王后を次の王妃に迎えた。そのとき、宣祖の二男の光海君(クァンヘグン)に嫁いでいた柳氏(ユシ)は26歳だった。8歳も下の姑が突然誕生して接し方に苦慮した。 自決を迫った妻 柳…
1680年の秋、19代王・粛宗(スクチョン)は女官だった張禧嬪(チャン・ヒビン)の美貌に目を見張った。この年には粛宗の最初の正妻だった仁敬(インギョン)王后が亡くなっているが、粛宗の心はすでに張禧嬪しか見えていなかった。そのとき、粛宗が19歳で、張禧嬪が21歳だった。 宮中を追われた張禧嬪 粛宗(ス…
朝鮮王朝後期の名君として名声を博した正祖(チョンジョ)。時代劇『イ・サン』の主人公としてもよく知られている。彼は優秀な国王であっただけでなく、漢方薬についても医者ほどに詳しかった。 医官に薬の指示を出す正祖 1800年6月、48歳の正祖は高熱を発した。 からだに大きな腫れ物もできていた…
端敬(タンギョン)王后はどんな女性だったのか。 生没年/1487~1557年 夫/11代王・中宗(チュンジョン)と1499年に結婚した 子供/いなかった 父親/慎守勤(シン・スグン)は燕山君(ヨンサングン)の側近 端敬王后の親族は? 『七日の王妃』の主人公になっていた端敬(タンギョン)王后。11代王…
19代王・粛宗(スクチョン)が張禧嬪に出会ったのは1680年だった、と言われている。張禧嬪は通訳官の親戚というコネで王宮に入ってきた女官である。絶世の美女だったことは間違いないので、艶福家の粛宗は一目で気に入った。 後継ぎを熱望した粛宗 王が女官を気に入って一晩共にすることを承恩(スン…
中宗(チュンジン)は、異母兄の燕山君(ヨンサングン)が暴政の末に廃位となったので、1506年に「代理の王」のような形で11代王になった。それが、彼にとっての苦悩の始まりであった……。 中宗が頼った人物 中宗は王になるための帝王学を学んできたわけではなかった。つまり、何の準備もなく急に王…
世子(セジャ)といえば、国王の正式な後継者です。それなのに、命を奪われてしまった3人の世子がいます。果たして、志なかばにしてこの世を去った3人とは、誰なのでしょうか。 あまりに悲しき運命 3人の世子とは、李芳碵(イ・バンソク)と昭顕(ソヒョン)世子と思悼(サド)世子です。順に見ていきま…
韓国時代劇の傑作といえば、なんといっても『宮廷女官 チャングムの誓い』だ。このドラマには多くの医女が出てくる。彼女たちの存在は、どのような必然性から生まれたのだろうか。 医女は宴会にもかり出された 王宮の中で、医女の制度が始まったのは15世紀の初期であった。 生活上で男女が交わることを…
時代劇『イ・サン』の始まりでは、英祖(ヨンジョ)の息子の思悼世子(サドセジャ)が米びつに閉じ込められている場面が描かれていた。思悼世子の息子のイ・サン(当時10歳で後の22代王・正祖〔チョンジョ〕)は、米びつに近づいてはならないという王命にそむき、危険をかえりみずに父に会いにきていた。 …
イ・ビョンフン監督の演出で有名な『トンイ』と『イ・サン』を時系列に沿って年表で見る記事の3回目。ここでは、英祖(ヨンジョ)と思悼(サド)世子の確執によって起こってしまった重大事件を扱っている。 悪夢の餓死事件 英祖は政治的に手腕を発揮した。 1735年には息子の思悼世子も生まれた。聡明な息子に大いに…