14代王の宣祖(ソンジョ)は、正妻の懿仁(ウィイン)王后が1600年に亡くなると、2年後には50歳ながら18歳の仁穆(インモク)王后を次の王妃に迎えた。そのとき、宣祖の二男の光海君(クァンヘグン)に嫁いでいた柳氏(ユシ)は26歳だった。8歳も下の姑が突然誕生して接し方に苦慮した。
自決を迫った妻
柳氏と仁穆王后の相性は良くなかった。二人の不和は王宮で知らない人がいないほど深刻になっていった。
しかし、その不和に決着がつく日がやってきた。宣祖が1608年に世を去り、光海君が15代王として即位したからだ。
柳氏は王妃となり、夫の権威を盾に王宮でわがままにふるまうようになった。彼女の弟や甥も次々と高官にのぼりつめ、私腹を肥やして政治を歪めた。
1623年、反対勢力がクーデターを起こし、光海君は王位を追われた。ここから柳氏一族の没落が始まった。
光海君と柳氏は息子夫婦と一緒に江華島(カンファド)に流罪となった。
その途上の船の中で、柳氏は光海君に自決を迫った。
「生きて恥さらしになるより、潔く死にましょう」
そう柳氏は光海君に言い寄った。
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