『王女の男』に登場した貞熹王后 朝鮮王朝では未成年のままで即位する王が意外と多かった。 この場合、王族女性の最長老(王の母か祖母)が、王が成人するまでに垂簾聴政(すいれんちょうせい)を行なうのが習わしだった。垂簾聴政とは摂政のことで、幼い王の背後に御簾(みす)を置き、その奥にいた王族女性の最長老が重…
「朝鮮王朝実録」の記述をもとに1690年代の朝鮮王朝を見てみよう。粛宗の王妃だった仁顕(イニョン)王后は1689年に廃妃になったあとに1694年に再び王妃に復帰した。それによって、王妃に昇格していた張禧嬪(チャン・ヒビン)が側室に降格となっている。 粛宗が贈った褒美とは? 仁顕王后が王…
清での8年間に及ぶ人質生活を終えて、1645年2月に母国に帰ってきた昭顕(ソヒョン)世子。しかし、わずか2カ月で亡くなってしまった。あまりに不可解な急死。毒殺を疑われるのも当然だった。 歴史書も毒殺疑惑を提起 朝鮮王朝の正式な歴史書の「朝鮮王朝実録」。1645年6月27日の項では昭顕世…
写真=韓国tvN『100日の郎君様』公式サイトより NHK総合テレビで、毎週日曜日の午後11時から放送されている『100日の郎君様』。6月7日は第4話が放送されたのだが、どんどん面白い展開になっている。 ウォンドゥクとホンシムの掛け合いに注目 EXOのD.O.(ディオ)と…
朝鮮王朝の13代王だった明宗(ミョンジョン)は、中宗(チュンジョン)と文定(ムンジョン)王后の息子として1534年に生まれた。彼は中宗の二男であったが、母の文定王后は我が子を王にするために悪行のかぎりを尽くした。 悪政の時代 明宗は1545年に11歳で即位した。 彼が王になれたのは、異母兄(中宗の長…
正祖は今の韓国でも“朝鮮王朝後期の名君”として揺るぎない評価を得ている。確かに、彼が残した業績は多い。党争に明け暮れる政権を立て直し、停滞していた国政を一変させて様々な改革を成し遂げた。こうした業績が正祖の名声を高めているのは確かだが、それ以上に正祖が今の韓国で尊敬されているのは、彼が模範にしたいほ…
中宗(チュンジョン)の治世に活躍する医女の長今(チャングム)。彼女の登場は、偶然ではない。中宗の時代でなければありえない必然性があった。医女という制度は、3代王・太宗(テジョン)の時代にその端を発するが、中宗は医女という仕事の重要性を深く理解し、その身分について改善を図るよう命じていたのだ。中宗と長…
朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)は初代王の太祖(テジョ)となったが、彼は神懿(シヌィ)王后との間に6男2女をもうけている。男子は上から、芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンイ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)の6人だった。 後継ぎは誰なのか 太祖の…
それは1800年6月のことだった。正祖(チョンジョ)は急な発熱で体調を崩した。からだに大きな腫れ物もできた。その痛みに苦しみながら、彼は薬を調合する現場を自ら視察している。毒殺されることを極度に警戒していたからだ。 徐々に衰弱していく正祖 正祖が苦痛を明らかにしたのは1800年6月だっ…
1552年に11代王・中宗(チュンジョン)の孫として生まれた宣祖(ソンジョ)。しかし、彼は側室から生まれた息子なので本来なら王になれるはずがなかった。なぜ彼は王として即位することができたのだろうか。 宣祖の後継者問題 13代王・明宗(ミョンジョン)には正室が産んだ息子が1人いた。 しかし、その明宗の…