石塔寺の三重の塔 百済から日本に渡来してきた人々の多くが定住した場所が近江であった。近江というのは江戸時代までの国名だが、近淡海(ちかつあわうみ)という古称に由来している。この場合の淡海とは琵琶湖のことで、近江は「琵琶湖の近くの土地」という意味であった。 百済系の渡来人 古代には近江に渡来人が多く住…
港町の風情 莞島(ワンド)の漁港の前の大通りを渡ると、そこは市場になっていた。細い道の両脇に、食料品の店が重なるように軒を並べている。魚と肉が入り交じった臭いにあおられて奥まで進むと、市場が尽きたところにごく小さな書店があった。 親切な店主 看板には「国際書林」と出ている。韓国では、名は体を表さない…
莞島港では漁船が並んでいた 魚を見て回る度に、威勢のいいアジュンマから盛んに声を掛けられる。けれど、一人旅の途中に活魚を買ってもどうにもならない。「大丈夫、ホラ、食べるところがあるから」。そう教えられて市場の端を見ると、湯気がもうもうと上がっている。観光客が大勢で鍋を囲んでいるようだっ…
枚方市の百済寺跡 660年に百済が滅んだあと、多くの難民が日本に渡ってきた。百済では最後の国王であった義慈王(ウィジャワン)の直系子孫は絶えたが、日本には義慈王の息子の勇がいた。この勇は、663年の白村江の戦いに敗れた豊璋の弟で、664年に難波に住んでいたことは間違いないようだ。 百済…
660年、百済が新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた。都の扶余(プヨ)は7日間燃え続けた。百済の王家も崩壊した。ただし、復興を信じて局地的に戦ったのが鬼室福信(キシルポクシン)である。百済最後の国王であった義慈王のいとこだった。 百済の暫定的な王 鬼室福信は生き残った兵を巧みに編成し、各…
済州島から乗ってきたフェリー デッキの端に立ち、フェリーが接岸する様子をずっと見ていた。いきなり、「パーン」という凄まじい衝撃音が起こり、船を繋ぎとめておくためのロープが、フェリーから岸に向かって打ち放たれた。そのとき、本当にヒヤリとした。 市場の光景 ロープの先端が岸で…
京都の広隆寺 古代の渡来人の集団の中でも特に有力だった秦氏(はたうじ)。この一族が日本に来たのは、4世紀から5世紀の頃と推定される。以後、秦氏は渡来系として急速に勢力を拡大。彼らは、養蚕機織や農業灌漑の技術を持っていることが強みだった。川に堰(せき)を作って水を分散させて各地に供給する…
Netflixでも配信されている『ドリーム〜狙え、人生逆転ゴール!〜』は、ホームレスのサッカー・ワールドカップを取り上げた異色のコメディ映画だ。見ていても本当に笑えてスカッとする作品になっている。 IUの本領発揮 パク・ソジュンが演じるのはサッカー選手のユン・ホンデで、不祥事を起こして…
船尾のベンチに座って漠然と後ろの海を見ていたときのこと。灰色のハンチングをかぶり白い靴を履いた70代の男性が横に座り、「先生様」と渋い声で呼びかけてきた。年上の大先輩から「先生様」と言われて恐縮した。 莞島港の風景 済州島の金柑 年上の大先輩は、私が手に持っていた済州島の地図を見たかったようだ。もち…
中国大陸で589年に隋が統一を果たすと、高句麗(コグリョ)は身が凍るほどの脅威を感じた。それまで高句麗は日本と関係を保っていなかった。しかし、隋の攻撃を受け始めると、「西から侵攻を受けるなら、東の国と連携しよう」という気持ちに傾き、日本との外交に乗り出した。 写真=植村誠 慧慈と聖徳太子 高句麗が日…