写真=韓国MBC『華政』公式サイトより 貞明公主の父は、14代王・宣祖(ソンジョ)である。彼の最初の正室・懿仁(ウィイン)王后は1600年に亡くなり、仁穆(インモク)王后を継妃として迎えた。その仁穆王后が1603年に産んだのが貞明公主だ。 幽閉された2人 宣祖が1608年…
大磯の高来神社 新羅と唐の連合軍は、660年に百済を滅ぼしたあと、次に高句麗の攻撃を狙った。危機を感じた高句麗は、666年に援軍要請のための使節を日本に派遣した。その中に若光(じゃっこう)がいた。彼は高句麗の王族の1人だった。 東国の開発 日本の朝廷は高句麗の援軍要請に応…
朝鮮王朝の27人の王の中で、在位期間が一番短かったのは12代王・仁宗(インジョン)の8カ月。逆に、一番長かったのは52年間も王位に就いていた21代王・英祖(ヨンジョ)である。80歳を過ぎても王の座に就いていたのは彼しかいない。 悲惨な出来事 英祖といえば、1762年の大事件が有名である…
張禧嬪(チャン・ヒビン)は親戚に通訳官をしている人がいたことから、そのコネで女官として王宮に入ってきた。大変な美女だったということで、やがて19代王・粛宗(スクチョン)の寵愛を受けるようになった。 わがままな振る舞い 粛宗の母親である明聖(ミョンソン)王后は、張禧嬪は息子にとって危険な存在だと感じ、…
張緑水(チャン・ノクス)は、10代王・燕山君(ヨンサングン)の側室となった女性である。「朝鮮王朝三大悪女」の1人として知られているが、いったい彼女は何をしたのだろうか。 妓生となった張緑水 幼いころに貧しい生活を送っていた張緑水は、そんな生活から抜け出すために歌と踊りを生かして妓生(キセン)となる。…
1649年に即位した17代王の孝宗(ヒョジョン)は、仁祖(インジョ)の二男である。彼は兄の昭顕(ソヒョン)世子(セジャ)と一緒に長く清の人質になっていた。1645年、兄は先に帰国した。この時点で王の後継者は兄だったので、孝宗は分家として王と距離を置くしかなかったのだが……。 父の仇を取りたかった孝宗…
時代劇の『王女の男』で、脇役でありながら特別な存在感を放っていたのが、貞熹(チョンヒ)王后と韓明澮(ハン・ミョンフェ)だった。歴史的にも2人は結託して王の即位に重要な役割を果たしている。 王位争いの伏線 1469年、朝鮮王朝の8代王の睿宗(イェジョン)は、わずか在位1年2カ月で急死した。享年19歳だ…
朝鮮王朝を開国した初代王・太祖(テジョ=李成桂/イ・ソンゲ)。その陰には太祖をあらゆる面で支える男がいた。それが鄭道伝(チョン・ドジョン)だ。しかし、王位継承をめぐる争いの中で、鄭道伝の命運は尽きてしまう。 朝鮮王朝が開国 1388年、高麗王朝は中国大陸の大国・明の相次ぐ侵略に腹をたて…
◆首陽大君(スヤンデグン/1417~1468年) 世宗(セジョン)の二男で、1455年に世祖(セジョ)として即位した。 ◆安平大君(アンピョンデグン/1418~1453年) 世宗(セジョン)の三男で、王位を狙って甥の端宗(タンジョン)を脅した首陽大君と激しく対立した。 競争心が強かった兄弟 世宗の長…
京都の広隆寺 古代の渡来人の集団の中でも特に有力だった秦氏(はたうじ)。この一族が日本に来たのは、4世紀から5世紀の頃と推定される。以後、秦氏は渡来系として急速に勢力を拡大。彼らは、養蚕機織や農業灌漑の技術を持っていることが強みだった。川に堰(せき)を作って水を分散させて各地に供給する…