660年、百済(ペクチェ)は新羅(シルラ)と唐の連合軍に攻められた。相手は圧倒的な兵力を誇っていた。百済の国内は危機感に包まれた。都の扶余(プヨ)では、政権の中枢を担う人たちが侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を重ねていたのだが……。 享楽に溺れた王 百済の31代王・義慈王(ウィジャワン)は、側近た…
朝鮮王朝の518年間には27人の国王がいたが、在位が一番長かったのは52年間の21代王・英祖(ヨンジョ)だった。その一方で、在位があまりにも短い王が何人もいた。そのうちの5人を選んでみた。 朝鮮王朝前期の3人 ◆定宗(チョンジョン) 〔1357~1419年〕 2代王。在位は1398~1400年。初代…
「善徳(ソンドク)」は死後に付けられた諡(おくりな)である。新羅(シルラ)の善徳女王(?~647年)の本来の名は徳曼(トンマン)と言う。生年は定かでない。新羅26代王の真平(チンピョン)王の長女として生まれた。 632年に即位 善徳女王は小さいころから聡明だった。 それを物語る逸話があ…
「古代から高麗王朝時代までの朝鮮半島で最も尊敬する大人物は?」という質問を現在の韓国で投げかけたら、間違いなく広開土大王(クァンゲトデワン/375年~413年)の名が一番多くあがるだろう。朝鮮半島から中国東北部にかけて広大な領土を持った大帝国を築き上げたという意味で、彼ほど韓国人の自尊心を充足させる…
518年間も続いた朝鮮王朝には42人の王妃がいた。その中には、幸福を満喫した王妃もいれば、悲惨な目にあった王妃がいた。今回は、理不尽な仕打ちを受けた「悲惨な五大王妃」を取り上げてみよう。 悲惨な3人 まずは「悲惨な五大王妃」の中の3人を取り上げる。 ◆廃妃・尹氏(ユンシ) 〔1445~…
朱蒙(チュモン/紀元前58年~紀元前19年)は現在の韓国でも大変な尊敬を集めているが、その人物像は神秘に包まれている。なにしろ、高句麗(コグリョ)の建国神話で朱蒙は、柳花(ユファ)という女性が産んだ卵の殻を破って出てきたことになっているからだ。 弓の名人 卵から生まれた、という誕生秘話…
1800年、名君として名高い22代王・正祖(チョンジョ)が亡くなり、その息子が10歳の若さで23代王・純祖(スンジョ)として即位した。幼い純祖が王位についたのは、正祖には他に息子がいなかったからだ。しかし、成人もしていない王が政治をするのは無理があり、垂簾聴政を行なったのが、21代王・英祖(ヨンジョ…
19代王・粛宗(スクチョン)は、張禧嬪(チャン・ヒビン)の他に淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)〔1670年~1718年〕との間にも息子をもうけた。それが21代王・英祖(ヨンジョ)である。英祖は庶民の生活を第一に考える政治を行った。彼がそうした政治をできたのは、ひとえに淑嬪・崔氏の存在が大きかった。 …
貧しい家庭に生まれた張禧嬪(チャン・ヒビン)〔1659年~1701年〕は、ずっと不遇の生活を送っていたが、偶然にも宮廷で働けるようになった。 張禧嬪の野望 王妃たちの世話をしながら、出世を夢見る張禧嬪。美しい容姿を持つ彼女を一目見た粛宗(スクチョン)は、すぐに気に入って、自分の側室にした。 当時、粛…
11代王・中宗(チュンジョン)には3人の妻がいた。最初の妻は父が燕山君(ヨンサングン)の側近だったために追放された端敬(タンギョン)王后。2人目の妻は12代王・仁宗(インジョン)を産んですぐに亡くなった章敬(チャンギョン)王后だ。そして、3人目の妻が文定(ムンジョン)王后〔1501年~1565年〕で…