660年、百済(ペクチェ)は新羅(シルラ)と唐の連合軍に攻められた。相手は圧倒的な兵力を誇っていた。百済の国内は危機感に包まれた。都の扶余(プヨ)では、政権の中枢を担う人たちが侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を重ねていたのだが……。
享楽に溺れた王
百済の31代王・義慈王(ウィジャワン)は、側近たちに首都防衛の最善策を聞いていた。
「唐軍は海を渡ってきていますが、長い船旅で疲れています。上陸早々に総攻撃をかけましょう。新羅軍は唐軍が敗れるのを見たら、早々に退散するでしょう。ですから、まず唐軍から攻めるべきです」
「いや、我々は新羅には何度も勝ったことがあるから、まず新羅軍を攻めましょう。唐軍の行く手を阻んで彼らを待機させ、その間に新羅軍を撃破するのが得策です」
別々の意見が出て、義慈王は決断できずにいた。
もとはといえば、この王が享楽に溺れて国政をないがしろにしたせいで、百済は新羅・唐の連合軍にあなどられてしまったのである。
困り果てた王は、今は左遷させられているが兵法に詳しい高官のもとに使者を派遣した。戦術を聞かれた高官はこう進言した。
「守りを固めて籠城し、敵が疲れるのを待つべきです。彼らの食糧が尽きたところで攻撃を仕掛ければかならず勝てるでしょう」
意見は分かれる一方だった。こんなことでグズグスしている間に、新羅・唐の連合軍は扶余のそばまで迫ってきていた。窮地に陥った百済は、座して死を待つより果敢に攻めていくしか方法がなくなった。
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