1636年12月、清の10万人を越える大軍に攻められた朝鮮王朝は、ついに降伏し、翌年の1月に16代王・仁祖(インジョ)が屈辱的な謝罪を強いられた。それを象徴する碑を訪ねた。 三田渡の碑 屈辱的な石碑 清の皇帝の前に引っ張りだされた仁祖は、地面に額をこすりつけるような形で謝罪しなければならなかった。 …
朝鮮王朝が実施した流刑は、罪の軽重によって流配地を決定するというものだった。つまり、重い罪を負うほど漢陽(ハニャン/現在のソウル)から遠い場所に流されたのである。特に、多かったのが朝鮮半島西南部の諸島や済州島(チェジュド)。とりわけ、朝鮮王朝時代に南海の孤島とされた済州島は、最も多くの政治犯が流刑と…
文定(ムンジョン)王后の息子の慶源(キョンウォン)は、1545年に13代王の明宗(ミョンジョン)として即位した。彼は学問を好み性格も温和だったが、まだ幼かったために強引な母に頭が上がらなかった。実権のほとんどは母の文定王后が握っていた。 尹元衡と鄭蘭貞 文定王后は、敵対勢力への迫害を続けながら自分た…
仁宗(インジョン)は、27人の王の中でもっとも親孝行した立派な人物なのだが、性格はかなりのお人好しだ。しかし、その性格を利用されて、彼は自分の命を危険にさらしてしまう。 親のために死を選ぶ覚悟 1515年、峼(ホ)は、11代王・中宗(チュンジョン)と二番目の正室である章敬(チャンギョン)王后の間に生…
金介屎(キム・ゲシ)は、15代王・光海君(クァンヘグン)を裏で支えていた女性だが、目的のためなら手段を選ばなかった。果たして、どんな悪事を働いたのか。 世子になった光海君 幼いころに王宮に入った金介屎。文書の扱いに優れていた彼女は、14代王・宣祖(ソンジョ)に仕えた。 宣祖は、朝鮮王朝で初めて側室か…
1544年、朝鮮王朝の11代王・中宗(チュンジョン)は臣下たちの権力争いに苦しめられていた。そうした気苦労は中宗の体調を悪化させた。病に倒れた中宗は、長男に王位を譲った翌日に亡くなった。 献身的な息子 中宗の長男が12代王の仁宗(インジョン)として即位した。29歳だった。 生まれつきからだが弱かった…
イ・ソジンが主演した傑作時代劇『イ・サン』は、22代王・正祖(チョンジョ)の壮大な一代記だった。このドラマにも登場した強烈な個性の5人の女性にスポットを当ててみよう。 最初の2人 恵慶宮(ヘギョングン) 〔1735~1815年〕 正祖の母である。 21代王・英祖(ヨンジョ)の息子の思悼…
朝鮮王朝27人の王の中で、今も尊敬を集めている4代王・世宗(セジョン)。彼は、在位中にある大きな功績を残したが、いったい何をしたのだろうか。世宗の偉大さについて語っていこう。 幼いころから聡明だった 朝鮮王朝3代王・太宗(テジョン)の三男として生まれた忠寧(チュンニョン)。朝鮮王朝時代…
貴人(キイン)というのは、側室に与えられる二番目に高い品階のことである。最終的に貴人まで昇格した趙氏(チョシ)は、仁祖の長男夫婦に対してどれほどの悪事を働いたのだろうか。 失意の仁祖をなぐさめた側室 仁祖(インジョ)が統治していた1636年12月、清が10万を越える兵力で攻めてきた。 …
張禧嬪(チャン・ヒビン)が19代王・粛宗(スクチョン)の側室になったとき、正室は仁顕(イニョン)王后だった。仁顕王后に早く子供ができていれば、王妃としての立場は磐石だったと思われるが、あいにく彼女は病弱で、床に伏す日が多かった。結局、粛宗は張禧嬪のもとに入り浸(びた)りとなった。 王妃…