【時代劇が面白い】トンイと張禧嬪はなぜ争ったのか4「王の母になった2人」

「朝鮮王朝実録」の1701年9月23日の記述を見ると、粛宗(スクチョン)が張禧嬪(チャン・ヒビン)の行状を罵倒しています。「就善堂(張禧嬪の住まい)の西側にひそかに神堂を建てて、いつも2、3人の怪しげな者たちと祈祷をして、おかしなことを続けていた。こんなことが許されるなら、一体どんなことが許されないというのか」。当時は人を呪い殺すことができると信じられていました。それだけに、人を呪う儀式は重罪とされていました。

 

死罪となった張禧嬪
重要なのは、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が粛宗に対して張禧嬪の行状を訴えたことです。
実は、淑嬪・崔氏は1694年に粛宗の息子を産んでいます。すでに張禧嬪の息子が世子に指名されていますから、淑嬪・崔氏の息子が世子になることはできないのですが、張禧嬪はそれでも淑嬪・崔氏を警戒して毒殺まで画策しました。
また、「朝鮮王朝実録」には記されていないのですが、張禧嬪の淑嬪・崔氏に対するいやがらせは執拗だったようです。それでも、淑嬪・崔氏は堪えていました。彼女は仁顕(イニョン)王后を心から慕っており、自分が王妃を守る盾にならなければいけないと自覚していたのです。
それなのに、張禧嬪は巫女を呼んで仁顕王后を呪い殺そうとしていました。その所業にさしもの淑嬪・崔氏も堪忍袋の緒が切れて、仁顕王后が亡くなった直後に淑嬪・崔氏は粛宗に訴え出たのです。そこには、淑嬪・崔氏の積もりに積もった鬱憤が込められていました。

1701年9月25日、粛宗は王命を発します。
「罪がすでに明らかになったのに、もしもふさわしい方法が取られなければ後悔を残すことになる。真に国家のために、そして世子のためにも、張禧嬪を自決させよ」
ここまで粛宗が言い切ったのです。しかし、重臣たちが反対しました。すると、粛宗は10月8日に再び王命を出しました。
「賜薬(死罪)以外に他の方法はない」
粛宗は最後まで自分の意志を曲げませんでした。こうして張禧嬪の死罪が確定し、彼女は毒を呑んで絶命しました。
その後、淑嬪・崔氏は1718年に48歳で亡くなります。粛宗が世を去るのはその2年後で、後を継いだのは予定どおり張禧嬪の息子でした。それが20代王の景宗(キョンジョン)です。彼は性格がとても良くて人徳がありました。その点では母親に似ていなかったと言えます。

ただし、病弱でした。在位はわずか4年2カ月で、1724年に36歳で亡くなりました。息子がいなかったので、異母弟が景宗の後を継ぎます。つまり、淑嬪・崔氏の息子が21代王・英祖(ヨンジョ)として王位に上がったのです。
結局、張禧嬪と淑嬪・崔氏のそれぞれの息子が王になったわけです。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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コラム提供:ヨブル

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2020.10.26