拙速すぎた改革
新井白石はときには通信使と激論を闘わせながら相手を屈服させ、苦しみながらも改革を実行していった。
しかし、最大の争点となったのは、日本からの復書の書き替え問題である。この答礼の復書に朝鮮国王の祖諱(先祖の名)を犯した文字があるというので、使節団から書き替えを求められた一件だ。国王名の犯諱は、使臣として生死にかかわる重大事であったので、朝鮮通信使の抗議は激しかったが、白石は朝鮮側の国書にも3代将軍家光の「光」の文字を犯していることを理由にあげ、書き替えに応じなかった。
この問題は大いに紛糾したが、結局、お互いに国書を書き替えて、復路の途中でようやく国書の交換が行なわれた。そして、帰国した朝鮮通信使たちは、国家の体面を汚し、使節の重責を全うしなかったという理由で、厳しく処罰された。
一方、白石に対する国内の批判も少なからぬものがあった。親善を深めるための朝鮮通信使の来聘が、結果的に両国の格式や儀礼の違いを拡大する結果となってしまったからだ。白石は朝鮮通信使が江戸を出発した当日、一度は自分から退いて出仕を辞退したが、当時の将軍の慰留によって思い留まっている。
しかし、やがて白石が失脚すると、接待例が白石以前の旧例に復したのをみても、この改革が現実味を欠く一過性のものであったことがうかがえる。当時の幕府や諸藩の財政状態を考えると、白石がめざした接待の簡略化は大いに肯定できる面があるのだが、改革が拙速すぎたきらいは否めない。
儒教国家である朝鮮王朝との交流においては、なによりも体面と形式を重視しなければならないのに、白石にはその配慮が欠けていた。彼は優秀な儒者ではあったからその点は承知していたはずだが、外交上の得点をあせるあまり、日朝間の儒教受容の違いを明確に認識することができないでいたのである(第5回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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