「コラム」朝鮮通信使(世界記憶遺産)の歴史〔4〕

 

将軍呼称問題をめぐる対立
新井白石が「日本国大君」を改めようとした理由は、「大君」が朝鮮では臣下の職号に当たると見極めたからである(ただし、実際は国王嫡子の爵号であった)。
この称号を使用していると、徳川将軍が朝鮮国王の官職を受けたような印象を内外に与えることを、白石は極度に嫌った。
こうした将軍呼称問題の改革に対し、真っ向から大反対したのが対馬藩の真文役を務めていた雨森芳洲である。旧例にあるとはいえ、将軍の署名を「日本国王」にするのは、天皇の尊号を犯すものであるというのが芳洲の主張だった。彼は、日本の主権者は天皇でありその位は明らかに将軍の上にあるので、将軍が日本国王と名乗るのは僣越も甚だしいと考えていた。

雨森芳洲は、朝鮮通信使に対する過剰な接待を改めることに関しては基本的な賛意を示していたが、将軍呼称問題については激しく批判した。芳洲と白石は同じ木下順庵の門下として長い交遊を保っていたが、芳洲は信念を曲げることなく、自分よりはるかに身分の高い白石に論争を挑んだ。

このとき、白石は不快感をあらわにした。それでも改革を断行する決意を強くし、その旨を朝鮮王朝にも伝えている。
日本からの通信使改革の通知があって以来、朝鮮王朝では激論が交わされた。白石の要求を簡単に受け入れることは対日交渉において主体性を失うことを意味しているという意見がある一方、今回の改革は経費節約が主な目的であって日本の懇請を許しても国体を損することにはならないという主張もあった。
こうした両論うずまく中で朝鮮通信使が来日してみると、果たして日朝の間で「礼」をめぐって対立することが多かった。(ページ3に続く)

2018.04.22

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