「コラム」朝鮮通信使(世界記憶遺産)の歴史〔4〕

来日した朝鮮通信使の使節たちは儒教的な価値観を重んじた

 

儒教は格式と序列を重んじる。中でも朝鮮王朝が国教にしていた朱子学(儒教の一学派)は序列主義が強かった。その朱子学を政治思想としていた日本と朝鮮は、互いの外交においても、自国なりの朱子学的観念にこだわった。そのために、朝鮮通信使の「礼」や「接待」をめぐる対立は、朝鮮王朝と徳川幕府の間でひんぱんに起こった。

 

新井白石が提案した改革
1711年に来日した朝鮮通信使は、幕府との間で問題が多かった。幕府政治を主導していた新井白石が、旧例によらない改革を断行したからである。
白石自身は通信使のもつ意義を強く意識していた。実は、若き日の白石が世に認められるようになったのも、朝鮮通信使の来日がきっかけであった。
彼は1682年、ちょうど来日していた朝鮮通信使の詩文を求めて宿舎を訪ねたことがあった。その際、朝鮮通信使の製述官に自分の詩集の序を書いてもらったのだが、これが木下順庵の目に止まったのである。その門下に入り、やがて徳川幕府に重用されていくわけだが、もとはといえば、朝鮮通信使の使節に序を書いてもらったことが栄達の飛躍台になっていたのだ。

そんな白石であったが、自分が実際に朝鮮通信使の応接に重責を担うようになると、その改革の必要性も痛感するようになった。その結果、以下のような改革骨子をまとめることになった。
1.将軍に対する「日本国大君」の称号を、室町期のように「日本国王」とする
2.若君(将軍の子)に対する聘礼を取りやめる
3.朝鮮礼曹から幕府執政への書状・贈り物の贈呈を停止する
4.贅沢になる一方だった江戸往復の道中の接待をより質素にする
5.宿舎での送迎や国書交換の儀式を改定する
この中で、特に問題となったのが、将軍の呼称問題である。(ページ2に続く)

2018.04.22

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