険悪となった親子関係
1645年、昭顕が清から解放されて漢陽(ハニャン/現在のソウル)に帰ってきた。その場にいた誰もが親子の感動的な再会を予想していただろう。しかし、清の文化のすばらしさなどを意気揚揚と語る昭顕の姿に、仁祖は機嫌を悪くした。
昭顕は、そのわずか2カ月後に世を去ってしまう。これについてはいろいろな説があるが、中でも一番有力なのは、仁祖による毒殺説だ。昭顕は、長男で後継ぎとなる世子(セジャ)の立場だったが、仁祖は彼を冷遇して葬儀を簡単に済ませてしまった。
しかも、仁祖は新たな世子を選ぶ際に、昭顕の長男を指名するのが原則なのに、自分の息子で二男の鳳林を指名した。その後、昭顕を支持する勢力が一掃されはじめた。
その影響は、昭顕の妻である姜(カン)氏にも及ぶ。彼女は、アワビを使った料理に毒を入れて王を殺害しようとした罪に問われて、1646年に死罪となる。
それから1年後の1647年、昭顕の息子3人は済州島へと流されてしまい、そのうちの2人は疑惑を持たれるような死に方をしている。
どう考えても、仁祖が長男一家を滅ぼしたとしか言いようがない。
その仁祖は、鳳林や大臣たちに見守られながら1649年に54歳で世を去った。
仁祖というのは死後に贈られた尊号だが、この「祖」は何か功績を残した王に付けられる。しかし、仁祖が生存中にやったことは、どうみても「祖」が付くような立派なことではないと思うのだが……。
文=康 大地(コウ ダイチ)]
コラム提供:ロコレ
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