第12回 暴君の汚名を着せられた隠れた名君
朝鮮王朝27人の王の中で暴君と称される10代王・燕山君(ヨンサングン)と、15代王・光海君(クァンヘグン)。しかし、近年では光海君の業績を見直そうとする動きがある。果たして、光海君は暴君なのか。それとも名君なのか。歴史を紐解いてみる。
混迷する後継者争い
朝鮮王朝13代王・明宗(ミョンジョン)には跡継ぎがいなかったため、自身の跡継ぎを11代王・中宗(チュンジョン)の孫の中から選出する。こうして、王となったのが14代王・宣祖(ソンジョ)である。
自身の出自をとても気にしていた宣祖は、自分の跡継ぎには正室から生まれた嫡男を指名したいという気持ちを強く持っていた。しかし、 正室の懿仁(ウィイン)王后は子供を産まなかった。
王の後継者がいつまでも不在なのは問題だったため、宣祖は側室の息子の中から跡継ぎを選ぶ必要にかられた。その候補になったのが、長男の臨海君(イムヘグン)と二男の光海君だ。
本来、朝鮮王朝では「長男が後継ぎとなる」という原則があり、臨海君が後を継ぐのが当然だった。しかし、臨海君は性格が粗暴で王の資質に欠けていた。
1592年、後継者選びが決まる前に豊臣秀吉による朝鮮出兵が起きた。朝鮮王朝は圧倒的な軍事力をもつ豊臣軍の前に敗北が続き、王である宣祖は都を捨てて逃げ出して、臨海君も捕虜にされてしまう。
一方、二男の光海君は地方で義兵を募ったりなど、大きな功績を残した。その結果、宣祖は光海君を後継者に指名しようとした。そこに待ったをかけたのが、中国大陸の大国・明だ。当時、朝鮮王朝では王の後継者を決める際に、明にお伺いを立てなければならなかった。しかし、明は「長男が健在なのに、二男が跡継ぎになるのはおかしい」と主張したのだ。
王の地位に迫る危機
1598年、豊臣軍の撤退によって朝鮮出兵は幕を下ろしたが、後継者の選定についてはまだ明から許可がおりなかった。
そうした状況の中、最初の正室である懿仁王后が亡くなり、宣祖は再婚して仁穆(インモク)王后を二番目の正室に迎える。
この仁穆王后が1606年に念願の嫡子である永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだ。宣祖はようやく生まれた待望の嫡男を、すぐにでも王位に就けたいと強く思った。しかし、彼はその願いを叶えることができないまま、1608年に世を去ってしまう。
王が後継者を指名しないまま亡くなれば、王妃が次の王を指名するのが通例だったが、仁穆王后もまだ2歳の永昌大君を王にするのは躊躇した。こうして、光海君が15 代王として即位するのだった。
しかし、光海君が即位しても王位継承争いは落ち着かなかった。いまだ中国の明がまた光海君の即位を認めなかったのだ。さらに、王になれなかった臨海君もまた、光海君への批判を繰り返していた。
この状況を不安視した光海君を支持する派閥の大北(テブク)派は、1609年に臨海君を謀殺するのだった。
臨海君の排除が終われば、当然ながら標的は永昌大君に移る。
彼らは仁穆王后の一族が王位転覆を狙っていると濡れ衣を着せると、永昌大君を江華島(カンファド)に島流しにして、仁穆王后を離宮(現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉してしまった。
大北派の陰謀はこれだけではなかった。1614年、彼らは永昌大君を部屋に閉じ込めて焼死させている。永昌大君はまだ8歳だった……。
結果的に光海君は、兄と弟を殺害しただけでなく、義理の母になる仁穆王后を離宮に幽閉したのだ。儒教社会において徳を欠くこの行為は、とても容認できるものではない。これが、後世で光海君が暴君と呼ばれる最大の原因である。
しかし、光海君は外交面で多大な成果を残していて、内政面でも庶民の減税に尽力するなど、有能な王だったことは間違いない。業績だけ見れば名君と言われてもおかしくなかったのだ……。
仁穆王后の怒りの訴え
血塗られた王位に座る光海君だが、そのツケを支払うときがきた。
1623年、大規模なクーデターが勃発したのだ。
主犯は、宣祖の孫の1人である綾陽君(ヌンヤングン)。彼は自分の弟である綾昌君(ヌンチャングン)が、謀反の罪で処刑されたことで、光海君に深い憎しみを抱いていた人物だ。
綾陽君は個人的な恨みでクーデターを起こせば、ただの反逆にしかならないことを理解していた。そんな彼が大義名分として掲げたのは、幽閉されている仁穆王后だった。
入念な計画が練られた綾陽君のクーデターは見事成功した。こうして、綾陽君は16代王・仁祖(インジョ)として即位するのだが、問題があった。
愛する息子を殺されて、自身も長年にわたって幽閉されていた仁穆王后が、執拗に光海君の処刑を訴えたのだ。いくら廃位となったとしても、先代王を簡単に処刑することは悪評に繋がりかねない。仁祖は仁穆王后の怒りを鎮めることに尽力する羽目になった。
なんとか、仁穆王后を落ち着かせた仁祖は、光海君を江華島(カンファド)に流罪として、最終的には都からもっとも遠い済州島(チェジュド)にまで流された。
共に流された妻や息子夫婦は流罪の苦しみから早々に命を落とすが、光海君は66歳まで生き抜いた。
すべてを失った王は、絶海の孤島で何を思って死んでいったのだろう……。
文=康 大地(コウ ダイチ)
コラム提供:ロコレ
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