なにしろ、英祖の息子であった思悼(サド)世子が10歳上なのである。ところが、相性が悪かったこともあり、思悼世子の失脚をはかって陰で動いた。
結局、思悼世子は米びつの中で餓死した。
貞純王后は、22代王・正祖(チョンジョ)の時代になって辛うじて罪をのがれたが、1800年に正祖が亡くなったときは毒殺説の首謀者と見なされた。
正祖の後を10歳の純祖(スンジョ)が継ぐと、貞純王后は未成年の王の後見人となり、キリスト教徒の大虐殺事件を引き起こしている。
その理由は、政敵にキリスト教徒が多かった、ということだった。その悪政のせいで、多くの人が命を奪われた。
3人目は純元(スヌォン)王后〔1789~1857年〕である。
純祖の正妻だが、夫が気弱なことを利用して、実家の安東(アンドン)・金(キム)氏の一族に重職を独占させた。
さらに、1834年に孫の憲宗(ホンジョン)がわずか7歳で即位すると、王族最長老として政治を私物化して、政権が腐敗する原因を作った。
朝鮮王朝の国力を傾かせたという意味で、純元王后の罪は大きい。
文定王后、貞純王后、純元王后……この3人が王の代理として政治を仕切ったことが、朝鮮王朝にとっては不運だった。あまりの「巨悪」によって、王朝の歴史は無惨なものになってしまった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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コラム提供:韓流テスギ