粛宗が引き起こした女性問題
張禧嬪との子供を後継者にした粛宗は、1689年4月21日に「仁顕王后を廃妃にする」と言った。この王命には誰もがビックリしただろう。周りの高官たちは当然のごとく大反対した。しかし、粛宗はそれをすべて無視して仁顕王后の廃妃を強行して、空席となった王妃の座に張禧嬪を就けた。
身分の低い女性が王妃になることは基本的にありえない。そういう意味では張禧嬪はまさに栄華をつかみ取ったと言ってもいいだろう。彼女が王妃となったことで、息子が世子(セジャ)になった。夫である粛宗の力を使えば当時の張禧嬪に不可能はなかったが、人生はそう甘くはなく、彼女はここからだんだんと落ちぶれていくのである。
最初は張禧嬪のことをかなり寵愛していた粛宗だが、次第にその愛は冷めていった。しかし、最高の幸せを手に入れて有頂天となっていた張禧嬪はそのことに気付かなかった。そこに現れたのが、韓国時代劇『トンイ』の主人公で知られる叔嬪・崔氏(スクビン・チェシ)で、粛宗は彼女を愛するようになった。
1694年、粛宗は仁顕王后を再び王妃の座に戻した際に張禧嬪を側室に降格させてしまうが、彼女には自分が産んだ長男が世子となっているという強みがあった。「息子が王になれば、また栄華を手に入れることができる」と思い、その日を期待して待っていた張禧嬪にさらなる衝撃が走る。淑嬪・崔氏が粛宗との子を産んだのだ。その後、再び王妃となった仁顕王后は病により床に伏せることが多くなり、粛宗との子供を産むことのないまま1701年に世を去った。愛する妻の死を粛宗は悲しんだ。その翌月、叔嬪・崔氏は張禧嬪が王妃に呪いをかけていたことを話した。調べてみると、仁顕王后が住んでいた昌慶宮(チャンギョングン)の通明殿(トンミョンジョン)の周りから呪いの人形や小動物の死骸が見つかったのである。ただ、仁顕王后が亡くなった原因がその呪いによるものなのかどうかは定かではない。
それを知った粛宗は、激怒して張禧嬪に死罪を言い渡す。臣下たちは「世子の母親を死罪にするなんてとんでもない」と反対したが、粛宗は考えを改めなかった。
自ら毒を飲む羽目になった張禧嬪は、「死ぬ前に息子に一目会いたい」と願った。それを聞いた粛宗は、一度だけ面会を許した。その場にいた誰もが感動的な親子の対面を想像したと思うが、どういうわけか張禧嬪は自分の子の下腹部の辺りを思いっきり握って失神させてしまう。最後の親子の面会にしてはかなり衝撃的なことだった。
張禧嬪は「朝鮮王朝3大悪女」の1人と呼ばれているが、その一方で粛宗に翻弄された哀れな女性という見方もできる。粛宗は1720年に59歳で世を去るが、朝鮮王朝27人の王の中で、女性に関する問題をこれだけ多く起こしたのは彼の他にはいないと思う。
文=康 大地(コウ ダイチ)