【時代劇が面白い】『王女の男』に登場する敬恵王女の生涯/中編

世祖(セジョ)は、敬恵王女の動向を気にした。彼女は「国で一番の美女」という評価も受けていて、庶民の間で人気が高かった。結局、世祖は、病床にある敬恵王女を見舞うという名目を付けて鄭悰(チョン・ジョン)を配流地から戻すことにした。一旦は、敬恵王女の無言の抵抗も功を奏したかに見えたのだが……。

 

夫を心から愛した
世祖の側近たちは、鄭悰の罪を解いたことに猛反対した。その声を無視することもできず、世祖は再び鄭悰を配流した。
しかし、今度は寧月よりはるかに都に近い水原(スウォン)だった。世祖なりに、多少は敬恵王女に便宜をはかろうという気持ちがあったのだ。
ここで、敬恵王女は驚くべき行動に出た。なんと、夫に従って自ら配流地に赴(おもむ)こうとしたのである。よほどの重罪でないかぎり流罪者に家族が付いていくことが許される場合もあるが、王族の女性がそんな境遇に自らを置くというのは異例なことであった。それほど敬恵王女が夫を愛していたということであろうか。

ドラマ『王女の男』では、敬恵王女も最初は夫を拒絶していたが、やがて夫の深い愛を知り、徐々に夫に尽くすようになった。現実の世界でも、敬恵王女は夫を心から愛する優しい妻であったに違いない。
1456年、端宗の復位を狙って世祖を暗殺しようとするクーデター計画が発覚した。いわゆる、「死六臣」事件である。それ以後も、世祖に反抗する勢力の存在が次々に明らかになった。

こうした事態を受けて、世祖は反対派に対して強硬手段に出た。その渦中で鄭悰に対する処罰はさらに厳しくなり、彼は全羅道(チョルラド)の光州(クァンジュ)に流されることになった。
そればかりか、鄭悰は配流地の家の周囲に囲いを作られて、外部との接触を一切禁じられた。かなりの重罪人扱いである。
このときも、敬恵王女は夫に付いていきたいと役所に願い出た。通常なら許可されないのだが、それを聞いた世祖は敬恵王女の申請を認めた。しかも、光州へ行くための輿(こし)まで用意した。ここでも世祖は敬恵王女を特別扱いした。彼女の弟から王位を奪った後ろめたさのためであろうか。
1457年、世祖の実弟である錦成大君(クムソンデグン)が世祖に反旗をひるがえして挙兵する動きを見せた。
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『王女の男』に登場する敬恵王女の生涯/前編

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2021.02.03