5代王・文宗(ムンジョン)の正室である顕徳(ヒョンドク)王后は息子(後の6代王・端宗〔タンジョン〕)を産むと3日で亡くなった。死ぬ間際の彼女は、端宗が立派な王になれるように周囲に祈りを託していた。
母の呪い
端宗は悲しい運命にさらされた。
顕徳王后に続いて祖父の世宗(セジョン)、父の文宗まで亡くなると、叔父の首陽(スヤン/世宗の二男)が幼い端宗から1455年に王位を強引な手段で奪ってしまった。
7代王・世祖(セジョ)となった首陽は、自分に逆らう者を厳重に処罰していく。しかし、世祖の強引な手法を納得できず、端宗を復位させようとする動きはいつまでたってもなくならなかった。
業を煮やした世祖は、端宗に与えられた先王の位を剥奪した上で、1457年に殺してしまった。この時、端宗はまだ16歳の若者だった。
端宗が死ぬことで世祖に歯向かう者は少なくなっていった。しかし、世祖の周りでは呪われているようなことが次々と起こり始めた。
まず、世祖自身が重い病を患うようになったこと。そして、世祖の子供たちの多くが病弱に生まれたことだ。
将来に不安を感じた世祖は、長男の懿敬(ウィギョン)を世子として指名する。しかし、懿敬は世子に指名されたわずか2年後の1457年に19歳で亡くなってしまった。彼の死因は昼寝をしている間に恐ろしい夢にうなされて絶命したことと言われている。
1468年、懿敬の代わりに二男が8代王・睿宗(イェジョン)として即位するも、彼もまた即位後1年で死去した。わずか19歳であった。世祖は息子二人をともに10代で失ったわけだ。
人々は、端宗の母の顕徳王后の呪いだとしきりに噂した。
文=李伯三(Lee Beksam)
コラム提供:チャレソ