評価が一変
結局、宋時烈は中国の古典的な礼論を根拠にして1年説を主張し、敵対派閥を論破して勝利しました。
以後、宋時烈は礼論の大家となりますが、党争の中で栄華と失墜を両方経験し、最後は1689年に死罪となります。
ただし、彼が率いた老論(ノロン)派は17世紀末から朝鮮王朝の主流派閥となり、亡き宋時烈も高い評価を受け続けました。
それが一変したのは、20世紀以降です。
「王朝が滅んで植民地になったのは、高官たちが政治をないがしろにして党争に明け暮れていたから」
そういう声が大きくなり、その元凶として宋時烈の名が取り沙汰されたのです。大物の評価は、時代によって本当に大きく変わるものです。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:チャレソ