異母弟が即位
文定王后の頭の中には、我が子を王位につけることしかなかった。
その末に、文定王后は一体、仁宗に対して何を企んだのであろうか。
可能性が高い、と見られているのが毒殺である。朝鮮王朝の歴代王には「毒殺されたのではないか」という疑惑がかなりあるが、それらは噂にすぎないものも多い。しかし、仁宗の毒殺説だけは信憑性がある。
なにしろ、文定王后には明確な動機があった。
こんな継母を持ったことが仁宗の不運であった。
彼は即位から8カ月後の1545年に亡くなった。
仁宗には子供がいなかったので、異母弟の慶源大君が12代王の明宗(ミョンジョン)として即位した。
文定王后は願いどおりに我が子を王にできた。おそらく、血がつながっていない仁宗を毒殺するという残忍な方法によって……。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
『七日の王妃』の端敬王后(タンギョンワンフ)はなぜ七日で廃妃になった?
コラム提供:韓流テスギ