日韓の二千年の歴史24/途絶えた交流

 

意見が対立
いかに江戸時代とはいえ、中井竹山が『草茅危言』の中で神功皇后の話を根拠に朝鮮半島を見下し、その説をまた松平定信が信じていた。
そのような空気が江戸時代後期の日本に芽生えていたのは確かだ。おりしも、本居宣長が『古事記』『日本書紀』の中に日本人が見いだすべき真実があると説いていた時期だった。他国を卑下して自国のすばらしさを強調する手法が、ときに勢いを得る場合がある。時代の閉塞感に行き詰まったときが多いのだが……。

「できれば朝鮮通信使を呼びたくない。どうしても呼ばなければならないなら、せめて対馬で応対を終わらせたい」
そう感じていた松平定信は、朝鮮通信使招聘の件を易地聘礼にすることを対馬藩に指示した。
しかし、朝鮮王朝が承諾しなかった。「前例を踏襲することが儒教的な秩序を守る根本」と頑迷に信じきっていた朝鮮王朝は、原則を変更することを極端に警戒した。

意見が対立した徳川幕府と朝鮮王朝。問題がこじれている間に、張本人の松平定信が1793年7月に老中筆頭を解任された。「寛政の改革」の評判が悪すぎたのだ。
(次回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

コラム提供:ロコレ
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日韓の二千年の歴史23/雨森芳洲と申維翰

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2019.09.04