人徳があった景宗
景宗が世を去ったのは、1724年8月25日のことだった。その日の夜には流星が見られたと「朝鮮王朝実録」は記している。さらに、景宗の人柄について以下のように付記している。
「殿下は天性と言えるほど慈しみにあふれ、人徳があった。幼い頃から学問に励み、物欲のない人だった。人々は神聖にして徳があると讃えた。しかし、憂いが積もって病を得て、それがつらくなるにつれて国を治めることに専念できず、御前会議でも一貫して沈黙し、政治を臣下たちにまかせた。それでも、お亡くなりになられた日には臣下や民衆の間で嘆き悲しまない人がいないほどであった。誰もが哀悼し、慕い、敬っていたのだ」
まさに最大級の称賛ぶりである。「朝鮮王朝実録」の中で景宗の記録は少論派の学者たちが担当したという事情があるにせよ、景宗は人間的に評判が良かった。それは、政治的にさしたる業績を残せなかったことを十分に埋め合わせている。
同時に、景宗は異母弟の英祖の面倒をよく見て、弟が王位を継ぐ道を整えた。この点でも景宗の人柄がよくわかる。他人への思いやりが深い人物だったことは間違いない。
同じく生母が死罪になった王でも、10代王・燕山君は母の恨みを晴らすために大虐殺を行なったのだが、景宗は無用の争いを起こさなかった。その点では「朝鮮王朝実録」が記すように人徳があったのだろう。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ヨブル
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