「3・1独立運動」
強圧的な政治によって民衆の抗日感情が激化したのが1919年3月1日でした。
伏線となった出来事は、高宗(コジョン)が1919年1月に亡くなったことです。このとき、朝鮮総督府による毒殺説が大きな噂になりました。
怒りを露にする人々の中で独立をめざす集団が決起して、3月1日に京城(ソウル)のパゴダ公園で、「独立宣言書」を発表しました。
それは、朝鮮半島が独立国であることを宣言したものです。勢いを得た民衆は「独立万歳」と叫びながら街頭でデモを行ない、その抗議行動は全土に波及していきました。大々的な「3・1独立運動」が始まったのです。
朝鮮総督府は徹底的にデモや集会を取り締まり、最終的には7600人以上の死者が出ました。
この事態に朝鮮総督府も衝撃を受けました。軍事力だけでは抗日運動を抑えることが難しい、と実感させられたのです。
それ以後は、朝鮮総督府も強圧的な武断統治を改めざるをえませんでした。
言論や集会の制限もややゆるめられ、民族資本の経済活動が部分的に許容される場合もありました。
一方、思想的に朝鮮半島の人々を日本に同化させる政策も進められました。
その一環として1925年10月15日に竣工したのが、京城(ソウル)の朝鮮神宮でした。
祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と明治天皇でした。
この神宮が造営されたのは、朝鮮半島で天皇崇拝を浸透させるためでした。朝鮮半島の各地にはさらに60余の神社が建てられました。
こうして、朝鮮半島の皇民化政策が積極的に進められていったのです。(ページ3に続く)