1719年の朝鮮通信使は、江戸時代の全12回の中で9回目の使節であった。徳川吉宗の襲職祝賀のために訪れており、総人員は475人にのぼっていた。このときの朝鮮通信使の製述官が申維翰(シン・ユハン)であり、彼は日本紀行文として名高い『海游録』を残している。
「礼」をめぐる対立
対馬藩の真文役として朝鮮通信使の接待に中心的役割を果たし、なおかつ、申維翰とも親密な交際をしたのが雨森芳洲である。そのときの状況は『海游録』に詳しく述べられている。
朝鮮通信使の一行が対馬藩主の宗義誠の出迎えを受けたのは1719年6月27日のことであった。翌日、申維翰は雨森芳洲と初めての対面を果たした。
それ以前から、申維翰は雨森芳洲が漢語と詩文によく通じており、日本でも抜きん出た人物であると聞いていた。
申維翰と雨森芳洲は、知り合って早々に、「礼」をめぐって激しく対立する。
ことの発端は、申維翰が対馬藩主に招待されたところから始まる。彼は、通訳と書員、画員を伴って宴席に臨むが、格式では対馬藩主と対等であることを主張して、藩主に拝礼することを拒否した。
そんな申維翰に対して、雨森芳洲は「今までの礼を廃することは、我々をあなどるものである」と猛然と抗議する。朝鮮王朝側の通訳も、申維翰に思いとどまるように説得する。しかし、申維翰は一歩も引かない。(ページ2に続く)