「コラム」朝鮮通信使(世界記憶遺産)の歴史〔5〕

 

徹底して格式にこだわった
申維翰と雨森芳洲の対立は深刻だったが、その場は藩主が宴席に欠席することでおさまった。しかし、感情的なしこりは大きく残った。
その後も、申維翰は対馬藩からの贈答品を受けとらなかったり、対馬藩主主催の宴での拝礼を拒否したりして、旧例に従わないことが多かった。
申維翰が、相手と対立してまで、格式や礼にこだわるのは、前回(1711年)の朝鮮通信使が新井白石と「礼」についてことごとく論争し、結局は屈伏したことが影響している。

そのときの朝鮮通信使は面目を汚したとして帰国後に処罰されたが、二の舞になってはならないと肝に銘じたであろう申維翰は、最初が肝心とばかりに徹底して格式にこだわった。
もちろん、国の代表者の一員として異国の土地を初めて踏んだ気負いもあったことだろう。
格式の問題においては、申維翰は確かに、名文と序列を重んじる朱子学を奉ずる朝鮮の官僚らしい論の立て方をしている。しかし、その論を外交にまで通そうというのは無理があった。(ページ3に続く)

2018.04.29