難しい舵取り
孝明世子は幼いころから頭脳明晰で、中国の古典に早くから精通していた。そういう素養があるがゆえに、朝鮮王朝の最高学府である成均館(ソンギュングァン)にわずか8歳で入学し、さらに勉学を積んだ。
朝鮮王朝には数多くの世子(セジャ)がいたが、その賢明さは随一であった。
その知性に純祖が大変な期待をかけたからこそ、まだ18歳だった孝明世子に1828年から代理聴政(テリチョンジョン)をさせたのだ。
代理聴政というのは、王に代わって政治を仕切ることを指している。通常は、未成年の王が即位したときに王族の最長老女性がよく代理聴政を行なったりするが、さらには、在位中の王の病状が悪化したときなどに、世子が代理聴政を行なうケースもあった。
こうした代理聴政で実績を上げれば堂々と王に即位できるのだが、逆にここで失政を重ねると世子としての適性を疑われて、国王の道が危うくなってしまう。それだけに、世子が代理聴政をするというのは緊張感が伴うものであった。何よりも、政治の中枢にいる官僚たちとうまくやっていかなければならなかったのだ。
実際、『雲が描いた月明かり』でも同じように描かれていたごとく、孝明世子が代理聴政をしたときというのは、母親の純元王后の実家である安東金氏が純祖に代わって実権を握っていた。
しかし、孝明世子の妻は豊壌趙氏(プンヤン・チョシ)の重鎮である趙萬永(チョ・マニョン)の娘であり、この豊壌趙氏というのは安東金氏に対抗する勢力であった。つまり、孝明世子は母親の実家と妻の実家の勢力争いの中で、うまく舵取りをしなければならなかった。
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