巧みな人心掌握術
大変難しい立場であった孝明世子が真っ先に取り組んだのが人事の改革だ。特に課題となっていたのは、安東金氏の勢力を抑えることであった。この一族があまりにも政権中枢を独占しすぎていて、政治が腐敗していたのだ。
そこで、孝明世子は官僚政治に新風を巻き起こすために、安東金氏の一族ではない人たちを積極的に登用していった。
その際には豊壌趙氏の一族が多かったのだが、難しい人事面において孝明世子は、わずか18歳という年齢にもかかわらず、巧みな人心掌握術を発揮した。
このあたりは、祖父の正祖の方法をかなり取り入れたと思われる。なぜなら、正祖も若い人材を登用するために、当時の主流派閥でない若者たちを積極的に選んでいる。そういった手法を大いに参考にしながら、孝明世子は人事改革を進めていった。
さらに孝明世子は、宮中の行事が旧態依然としていてまとまりがないことを重く見て、その行事を理にかなった形で再編成させた。
こうした改革で実績を上げながら、孝明世子は政治を刷新する環境を十分に整備していった。しかし、その直後に急な病に倒れて1830年に21歳で亡くなってしまった。
『雲が描いた月明かり』では、孝明世子の最期とは違う形でイ・ヨンを描いていたが、それは歴史の中で「もしも、孝明世子がもっと生きていてくれたら」という願いが込められた展開であったに違いない。
文=「ロコレ」編集部
コラム提供:ロコレ
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