強大となった仏教寺院
倭寇を鎮圧する過程で実績をあげてきたのが、高麗の武将だった李成桂(イ・ソンゲ)である。
1368年、中国大陸では元にかわって明が統一国家を築いたが、高麗では、北方に退却した元を支持する一派と、明を支持する一派が対立した。その間隙をついて李成桂は開京を陥落させ、政治的に第一人者となった。
最後は、高麗王朝34代の恭譲(コンヤン)王が李成桂によって追放され、1392年に高麗は滅んでしまった。
そんな高麗なのだが、当時の生活や文化を見てみよう。
高麗を建国した王建が仏教を手厚く保護したこともあり、仏教が隆盛をきわめた。各地に巨大な寺院が建てられ、仏教文化も華やかだった。
その大きな遺産が、海印寺(ヘインサ)に残る八万大蔵経(13世紀に作られた大蔵経の板木)である。
現在は世界遺産となっているが、「よくぞこれほどのものを作った」と感心させられるほどの木版である。
一方、仏教寺院が広大な敷地を所有して僧兵まで養い、政治に深く関与して国政を混乱させたのも事実で、その教訓を生かして高麗の次の朝鮮王朝は仏教を排して儒教を国教に定めたのである。
実際、高麗では仏教と同様に儒教も生活に浸透していた。それは、科挙の制度が儒教の教義に支えられていたことも大きく関係している。儒学は文官の必修科目となっていたのである。
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