「コラム」第10回 高麗王朝の歴史(後編)/康熙奉(カン・ヒボン)の「簡潔に読む!韓国の歴史」

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第10回/高麗王朝の歴史(後編)

 

蒙古の侵攻を受けた高麗(コリョ)王朝。政権内には、徹底抗戦を唱える一派がいれば、弱腰の和平を主張する一派もいた。1270年、ひそかに蒙古と手を組んだ文官たちによって武人政権は滅ぼされた。翌年、蒙古は国号を「元」と改めて完全に中国大陸の支配者となった。そして、高麗に対する締めつけを強化していった。

 

三別抄の抵抗

高麗王朝の政権は元に屈伏したが、私兵軍団の三別抄(サムビョルチョ)は元に対して徹底抗戦を続け、全羅道(チョルラド)や済州島(チェジュド)に南下しながらゲリラ戦を行なった。彼らは国家としての高麗を最後まで守ろうとしたのである。

しかし、1273年、元の大軍が三別抄の本拠地だった済州島に押し寄せ、決死の抵抗もかなわず三別抄も滅んだ。

これによって、高麗で元に反抗する勢力はなくなった。

こうなると、元は次に日本を狙った。

1274年、高麗を先兵とした元寇が始まったが、台風で壊滅的な被害を受けたこともあり、元寇は失敗に終わった。その後、元は次第に国力が衰え、朝鮮半島から退却した。かわって、高麗を苦しめたのが海賊集団の倭寇だった。各地の海岸に出没して大きな被害をもたらした。

(2ページにつづく)

 

2016.09.29