第7回/高句麗の滅亡(前編)
高句麗(コグリョ)は、百済(ペクチェ)や新羅(シルラ)と並ぶ古代の大国として知られている。特に、伝統的に騎馬軍団が強く、ドラマ『太王四神記』の主人公だった広開土大王(クァンゲトデワン)が統治した時代(391~412年)には朝鮮半島の歴史の中で最大の領土を誇った。それゆえに、今でも韓国で広開土大王は圧倒的な尊敬を受けてる。
高句麗最後の英雄
広開土大王の全盛期から約200年後、高句麗の名将として活躍したのが淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)だった。
彼はドラマ『淵蓋蘇文』で描かれたように、高句麗最後の英雄として有名だ。
生まれた年は定かではないが、幼い頃から勇敢で聡明だった。
淵蓋蘇文は、莫離支(マンニジ)という高句麗最高の官職についた祖父と父を持ち、自身もわずか15歳で後を継いだ。
若くして権力を手に入れた淵蓋蘇文の名は広く知られていくが、同時に彼に嫉妬して反発する者も増えていった。そのため、用心深かった彼は常に5本の刀を身につけて万事に備えた。
631年、高句麗王である栄留王(ヨンニュワン)は、大陸からの侵攻に備えて、西側の国境地帯に「千里の長城」と呼ばれる城の建築を始めた。
しかし、遅々として進まない工事に業を煮やした栄留王は、淵蓋蘇文を責任者として派遣した。
大役を与えられた淵蓋蘇文は、工事現場に直接出向き自ら陣頭指揮を取った。すると、今までの遅れが嘘のように工事は順調に進んでいった。
王権を操った傑物
642年、淵蓋蘇文が工事のため都を離れている隙を狙って、彼の強大な権力を恐れた者たちは栄留王をたぶらかし、クーデターを画策していった。
しかし、そうした謀略は権力者として宮中での根回しを終えていた淵蓋蘇文の耳にすぐに届いた。
彼は熟考の末に、要人たちを1カ所に集めて宴会を開いた。その宴会が自分たちを亡き者にするためのものと知らない要人たちは、なんの疑いもなく酒席を楽しんだ。
淵蓋蘇文は、油断しきった要人たちの前に姿を現して、一気に反対派の要人たちを一掃した。
さらに、自分を失脚させるためのクーデターに手を貸した栄留王を決して許さず、王宮に馬を走らせた。
そして、淵蓋蘇文は有無を言わさぬまま王を殺害し、名実ともに高句麗の最高権力者になった。
しかし、淵蓋蘇文は自ら王位に就くことはせず栄留王の甥を玉座に座らせた。その甥こそが高句麗最後の王であった28代目の宝蔵王(ポジャンワン)である。
宝蔵王は、王でありながら目立った功績を残せず、淵蓋蘇文の名声の陰に埋もれていった。それというのも淵蓋蘇文が自ら大莫離支(テマンニジ)という役職を作り、実質的な王権を彼が握っていたからだ。
敵は新羅・唐の連合軍
高句麗は敵国であった百済と同盟を結び、国力を増大させていった。そのことをもっとも恐れたのが新羅だ。
2つの敵国に囲まれるように位置する新羅は、このままでは自国の滅亡が避けられないと思い、高句麗の背後にある大国の唐に助力を求めるようになった。
こうして「高句麗・百済」対「新羅・唐」という対立構造が出来上がった。唐の太宗は使者を送り、“新羅との和睦”を勧めたが、高句麗はそれを拒否した。その結果、戦争は避けられないものとなった。
644年、唐は3回にわたって高句麗に大軍を送ったが、そのすべてを淵蓋蘇文は撃退し、逃走する唐の軍勢を追撃して多大な被害を与えた。
勢いを得た高句麗は655年、百済と連携して新羅に攻め入り、多くの城を手中に収めた。
淵蓋蘇文の統治のもとで優勢となった高句麗。しかし、それは大国である唐を本気にさせてしまった。
660年、新羅・唐連合軍は「先百済、後高句麗」という攻撃方針を定め、最初に百済を猛然と攻めた。
百済も奮戦して敵を苦しめたが、最後には力尽きて滅びた。
同盟国の滅亡で孤立した高句麗。新羅・唐連合軍の激しい攻撃を受けたが、淵蓋蘇文の圧倒的な指導力の下で善戦を続けた。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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