悲劇の末路を辿る昭顕世子
1637年、謝罪と賠償を済ませた朝鮮王朝だが、清はさらなる要求を突き付けた。それが、仁祖の息子たちを捕虜として連行することだった。こうして、長男の昭顕世子とその妻の姜(カン)氏、二男の鳳林(ポンリム)、三男の麟平(インピョン)の3人は清に連れていかれた。まだ、幼かった麟平は翌年に帰国を許されるが、昭顕世子と鳳林はその後も捕虜として監視され続けた。それでも、王族である2人は清内で大事に扱われたという。
昭顕世子と鳳林は清に入ってくる西洋の文化技術を間近に触れることができた。昭顕世子は、朝鮮王朝には朝鮮王朝にない技術の数々に素直に驚きと憧れを抱いた。一方で、鳳林は捕虜という立場に不満を募らせていく。
こうした2人の生活態度は仁祖に全て報告されて、憎い清の影響を受け入れる昭顕世子に対して怒りを露わにしていく。
1645年、昭顕世子と鳳林はようやく解放されて、すぐに帰国の報告をしに仁祖を訪ねた。このとき、昭顕世子は父が清の思想に影響される自分に敵意を抱いているとは思いもしなかった。
熱心に報告を続ける昭顕世子の話は、西洋の最新技術にまで及んだ。嬉々として語る昭顕世子は、仁祖の表情が曇っていることに気付かなかった。それでも話を続ける昭顕に激怒し、仁祖は手元にあったすずりを昭顕の顔に投げつけて、退席するように叱責した。
この数日後、彼は原因不明の死を迎えてしまうのだが、その死には不審な点が多い。
まず、昭顕の遺体の状態が異常で、顔も本人と確認ができないほどひどく腫れあがっていた。とても普通の死に方ではなかったのだ。
また、仁祖は世子を死なせた医官に何の罰も与えなかった。当時、王族が命を落としたら、処分を受けるのが関連だっただけに、仁祖の対応を不審に思う者は多かった。さらに、昭顕の葬式が王族としてはあまりに質素で、墓も都から遠く離れた場所に置かれた。
極め付けは、次の世子に昭顕世子の息子ではなく、鳳林を指名したことだ。本来ならば、世子が亡くなれば、その息子が王位継承者になる。それを覆すほど、仁祖は昭顕世子を突き放していたのだ。
こうした点から、昭顕は仁祖に毒殺されたという見方が有力になっている。ちなみに、親子の不和を助長したと言われるのが、時代劇『花たちの戦争』で主人公のモデルとなった貴人・趙(チョ)氏である。
ドラマ『三銃士』は清との決着が付く前の時代を舞台にしているが、悲惨な末路を辿るはずの昭顕世子の行く末を見守るのも面白い。
文=「ロコレ」編集部
コラム提供:ロコレ
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