歴史的な屈辱を強(し)いられた仁祖
1623年、クーデターによって即位した仁祖だが、当時の朝鮮王朝は豊臣軍との戦乱による傷跡が未だ残っていた。しかも、わずか1年で臣下による反乱まで起こり、仁祖の治世での国内情勢はとても不安定であり、国境の守備に満足な人員を割けなかった。
1627年、その隙を狙って北方の異民族・後金が、3万の兵を動員して朝鮮王朝は、大きな打撃を受けた。しかし、後金は中国大陸の大国・明とも戦争中であり、朝鮮王朝にばかり構っているわけにはいかなかった。
こうして、後金と朝鮮王朝の間には、「明との戦いの邪魔をしない」という条件で和睦が結ばれる。しかし、この条約は明と友好な関係を築いていた朝鮮王朝にとって屈辱的なものだった。
仁祖は打倒後金を誓って軍事力強化に尽力する。しかし、後金は明を滅ぼして国力を更に増大させていた。1636年4月、後金は国号を清に改称すると、朝鮮王朝に改めて君臣関係を迫り、仁祖は徹底抗戦の姿勢を示した。
同年10月、清は12万の大軍を率いて、朝鮮王朝に侵攻を開始する。清の圧倒的な軍事力の前に、朝鮮王朝は敗北を重ね続ける。仁祖にできたのは、城に立てこもって反撃の機会を伺うことだけだった。
やがて、城中では清に敗北を認めるべきだという声が大きくなっていき結局、朝鮮王朝は清に降伏した。
この際に、清は馬や財宝といった賠償金だけではなく、仁祖に謝罪を求めた。こうして、仁祖は、漢江(ハンガン)沿いにある三田渡(サンチョンド)に準備された壇に上り、清の皇帝の前で膝を折り直接頭を下げる屈辱を味わった。の出来事は、「三田渡の屈辱」と呼ばれている。
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