「コラム」「衝撃事実!イ・サンはどのような最期を迎えたのか前編」/康熙奉講演録2


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6月29日(水)に康熙奉(カン・ヒボン)氏の講演会が行なわれます。それに先駆けて、康熙奉氏が過去に行なった講演会をまとめた著書『康熙奉講演録』より、選りすぐりの記事をご紹介していきます。

 

歴代王の毒殺疑惑

朝鮮王朝には27人の王がいましたが、「毒殺されたのでは?」と疑われる王が何人もいます。その中で信憑性が高いと言われているのが、12代王・仁宗(インジョン)、20代王・景宗(キョンジョン)、そして、22代王の正祖(チョンジョ)です。

仁宗の場合は、父の11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后が犯人として疑われています。

彼女は自分が産んだ息子を王位に就けるために、中宗の二番目の正室が産んだ仁宗を亡き者にしようとして、何度も暗殺を狙っていました。結局、仁宗は文定王后に呼ばれて餅を食べたのですが、その直後から体調が悪くなって亡くなっています。その状況を考えると、文定王后が疑われるのも仕方がありません。

一方、景宗は張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子ですが、1720年に即位してわずか4年で亡くなっています。このとき、景宗の異母弟の英祖(ヨンジョ)に毒を盛られたのではないか、という噂が流布しました。英祖は景宗の後を継いで21代王になりましたが、本来なら縁がなかった王位に就いているので疑問を呈されたのです。

王位継承問題で常にもめていた朝鮮王朝。今度は、ドラマ「イ・サン」の主人公になった正祖の最期について見ていきましょう。

 

非業の死を遂げた父

22代王・正祖(チョンジョ)は、1752年に生まれました。父は、21代王・英祖(ヨンジョ)の息子だった荘献(チャンホン)です。

正祖が生まれる直前、荘献は神龍が宝石を抱いて寝室に入ってくる夢を見ました。吉兆だと思った彼は、目覚めた後に夢で見た出来事を自ら絵に描いて宮中の壁に貼っておきました。すると、後継ぎとなる男子を授かったのです。生まれてきた正祖の泣き声は、まるで大きな鐘が鳴るように宮中に響きわたりました。

「頼もしい鳴き声だ」

そう感心する人が多かったのです。

特に喜んだのが祖父の英祖でした。

「この子は本当に余に似ている。この子を得たからには、朝廷はなんの心配もいらなくなった」

英祖はそう言って、生まれたばかりの孫を褒めたたえました。

スクスクと聡明に育った正祖でしたが、10歳のときに悲劇に見舞われました。父の荘献が米びつの中で餓死したのです。

むごたらしい事件が起きたのは1762年でしたが、背景には深刻な派閥争いがありました。というのは、党争の渦中で荘献は陰謀に巻き込まれ、当時の主流派閥だった老論(ノロン)派によって素行の悪さを強調されすぎてしまったのです。結局、荘献の父である英祖は激怒し、荘献を米びつに閉じ込めるという愚挙をおかしました。

後に英祖は荘献の死を悼んで「思悼(サド)世子」という尊号を贈りますが、それは後の祭りでした。失った息子はかえってこないのです。

失意の英祖は、孫である正祖をせめて守り抜こうと決意し、次代の王としてりっぱに育てました。そして、英祖は1776年3月5日に82歳で世を去りました。

そのとき、正祖は悲嘆のあまり何も喉を通らず、泣いてばかりいました。よほど祖父の死がショックだったのでしょう。しかし、いつまでも泣いているわけにはいきません。彼には王朝を守り抜く使命がありました。

1776年3月10日、正祖は慶熙宮(キョンヒグン)で即位して朝鮮王朝の22代王にな

ります。即位後の第一声が正史の「朝鮮王朝実録」に残っています。それによると、正祖は堂々とこう発言しました。

「余は思悼世子の息子である。先王(英祖)が朝廷を守るために孝章(ヒョジャン)世子を受け継ぐように余に命じていたのである」

この言葉を聞いて、老論派の重臣たちは震え上がってしまいました。それはなぜなのでしょうか。

 

祖母の罪

正祖が口にした「孝章世子」というのは、英祖の長男で思悼世子の兄です。幼くして亡くなったので、次男の思悼世子のほうが王位継承者になりました。

正祖はその思悼世子の長男ですが、父が罪人として米びつの中で餓死しており、そのまま思悼世子の息子になっていますと王位継承の権利を失う羽目になります。そこで英祖は、正祖を孝章世子の養子にして権利を守れるようにさせました。

つまり、形のうえで正祖は孝章世子の息子として即位したのです。しかし、彼は自分のことを「思悼世子の息子」と明確に言い切りました。

これは何を意味するのでしょうか。

「実父を死に追いやった者たちを厳罰にする」

そう言っているも同然でした。それゆえに、老論派の重臣たちは恐怖におののいたのです。

事実、正祖は即位してすぐに、父の死に関係した者たちを次々に処罰しました。その中には、母方の大叔父や父の妹も含まれていました。どんなに身内であっても決して許さなかったのですが、1人だけ手を出せない人がいました。それが、英祖の二番目の正室だった貞純(チョンスン)王后です。

この貞純王后は、立場上は正祖の「祖母」になりますが、年齢は7歳だけ上でした。なにしろ、英祖が65歳のときに迎えた継妃で、そのときに彼女は14歳でした。そして、正祖

が24歳で即位したとき、貞純王后は31歳だったのです。あまりに歳が近いのですが、形の

うえではまぎれもなく祖母にあたります。

この祖母を正祖は処罰したくて仕方ありませんでした。彼女が思悼世子を陰謀に巻き込んだ張本人の1人であったからです。そのことを見抜いていた正祖は、亡き父の無念を晴らしたくて、貞純王后の罪を明らかにしようとしました。しかし、結局は処罰できなかったのです。朝鮮王朝は儒教を国教にしており、「長幼の序」は社会秩序の根幹でした。そんな中で、孫が祖母を罰したりすれば、大きな禍根を残すことは明白でした。即位してすぐに、そんな問題を起こすわけにはいきません。

結局、正祖は貞純王后を不問に付しました。このことが、あとあとになって響いてくるのですが……。

 

文=康熙奉(カン・ヒボン)
コラム提供:ロコレ
http://syukakusha.com/

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2016.06.11