新羅(シルラ)の名君というと、中央集権体制を確立した26代王・真平王(チンピョンワン)の名が挙げられることが多い。しかし、真平王に勝るとも劣らない功績を挙げたのが、29代王の武烈王(ムヨルワン)だ。彼は、いったいどんな王だったのでしょうか。
中国・唐との同盟
王系をたどると、真平王の娘が27代王・善徳(ソンドク)女王で、その善徳女王の妹の息子が武烈王(金春秋=キム・チュンチュ)という関係になる。
金春秋は、まず外交官として功績を残そうとする。その理由は、新羅が百済(ペクチェ)の侵攻を受けた際、娘夫婦が捕虜となり、残酷に殺されたからだった。ショックを受けた金春秋は、自身の力で百済を滅亡させることを誓った。
金春秋が最初に行なったのは、高句麗と同盟を結ぶことだった。当時の高句麗は、大将軍・淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)の下で一致団結していた。淵蓋蘇文も百済を滅ぼすことに積極的だったため、交渉は成功するかに見えた。しかし、淵蓋蘇文は、その条件として新羅の領土の一部を差しだすことを求めた。結局、高句麗との同盟は諦めざるを得なかった。
金春秋は休むことなく、今度は日本へと旅立つが、日本は百済と親密な関係であったため、この交渉も失敗に終わった。しかし、彼は諦めない。今度は中国・唐に向かったのだ。
金春秋は、“弱い新羅は百済と高句麗の脅威に怯えている”という名目で、唐と交渉を始めた。高句麗征伐を夢見ていた唐は、金春秋の要望を受け入れ、こうして「羅唐(ナダン)連合軍」の結成に、見事成功するのだ。
この交渉で、金春秋の外交手腕は高く評価された。
交渉後、金春秋が新羅に戻ると、28代王・真徳女王(チンドクヨワン)が亡くなっていた。当時の新羅では、王位継承者は父母ともに王族である「聖骨(ソンゴル)」という階級から選出されることになっていたが、真徳女王が子を産まずに亡くなったため、両親のどちらかが王族である「真骨(チンゴル)」の金春秋が29代王・武烈王(ムヨルワン)として即位した。
唐王と連携した武烈王は、「先百済・後高句麗」という攻撃指針を打ち出し、先に百済を攻撃して、次に高句麗に侵攻することにした。大国・唐と連携した新羅は、百済に攻撃をしかけ、660年に滅亡させた。娘夫婦の死から18年にして、武烈王の悲願は達成されたのだった。
翌年、武烈王は高句麗遠征の途中に病死する。30代王・文武王(ムンムワン)は、武烈王の遺志を継ぎ、見事に三国統一を果たした。
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