韓国に来ては「バンチョッパリ(半日本人)」と軽蔑され、異物でも見るかのような見下す視線を浴びたり、金をだまし取られた事など。暗く臭い三流映画館(東大門)で一日中洋画の字幕を繰り返し目で追い、ハングル(韓国語の文字)を覚えようとした月日。同じ韓国映画を何回も見てストーリーがわかった時の喜び。パゴダ公園で年寄りにマッコリを献上して言葉を教わるつもりが一緒に酔っ払った事など在日にとって言葉を覚え韓国人になることがどんなに大変であるか、あることない事を交え涙ながらに必死に訴えました。
話を聞いていた取調官が、『オッイボ(服を着ろ)!』
その一言がどんなにありがたかったか!!!念書にサインして無罪放免!
*「ここであったこと聞いたことを一切他人に口外せぬことを誓い、違反した場合はどんな罰でも受けます。」年月、姓名、拇印
地獄(!?)からの扉を開けると、そこは別世界!元気に走り廻る子供達、道端でだべるアジュンマ(おばさん)ら!狭い道をクラクション鳴らして無理やり通り抜けようとする車!この喧噪、何これ!?そこにはごく普通の生活の匂いがプンプンする世界が!
「恐怖の館」と「生活の場」がたった一つの塀を挟んで併存する摩訶不思議な街、ソウル!その街をフワフワした足取りで解放感と日常の生活に戻れた喜びを噛みしめながら帰る私。
無事3泊4日のお勤め(!?)を終え元の生活に戻れるかと…。そうは問屋が卸しません。タバン(茶房・喫茶店)など人の集う所に行くと監視されていないかキョロキョロ見回す自分が。いつ又引っ張られるのかと夢でうなされたことも。このトラウマから解放されるのにおよそ1年かかりました。
この話は最貧国から強力な軍事独裁体制で経済成長を遂げた‟光”の影、人権を踏みにじった‟闇”の部分と言えましょう。
<余談>
歳も押し迫った12月某日。やっと恐怖の記憶が薄れかかった頃、私を取り調べた李から電話があり、どこそこに来るようにと。また連行されるかもと、指導教授や親しい友人に後のことを頼んで指定されたタバンに向かいました。
先に来ていた強面の李某が笑顔で迎え、たばこを勧めコーヒーを頼んでくれるなど逮捕当時とは全く違う不自然な応対に戸惑いながらも緊張を解かず座っていました。
近況や大学の動向など一連のことを聞かれ、最後に保安司令部から連絡があったかと。勿論あれ以来きょうが初めてだと伝え、その言葉を聞いた李某はホッとし、私に頼みがあると。
「実は君に毎月いくらかの情報収集費が出てることになっているので、もし軍の者が聞きに来たら‟貰ってると言ってくれるか!」
一瞬、「えっ私に毎月お金が…」
事実はどうであれまた連行されないならお安い御用と二つ返事で同意した私!恐怖にかられ何と卑屈でひ弱い人間がそこに。了。
※権鎔大(ゴン・ヨンデ)韓日気質比較研究会代表の寄稿。ソウル大学史学科卒業、同新聞大学院修了。大韓航空訓練センター勤務。アシアナ航空の日本責任者・中国責任者として勤務。「あなたは本当に『韓国』を知っている?」の著者。
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