【時代劇が面白い!】朝鮮王朝三大悪女(張緑水、鄭蘭貞、張禧嬪)はどのように成り上がったのか

朝鮮王朝でも特に有名な三大悪女といえば、張緑水(チャン・ノクス)、鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)、張禧嬪(チャン・ヒビン)の3人だ。彼女たちはどんな手段を使って高い地位を得ていったのだろうか。



国家の富を私物化!
張緑水(チャン・ノクス)は、極貧の中で育った。あまりの貧しさに、身体を売って糊口をしのぐ日々が続き、やがて斉安大君(チェアンデグン/9代王・成宗〔ソンジョン〕のいとこ)の屋敷で働く奴婢(ぬひ)の妻となった。
このとき、張緑水の欲望に火がついた。上流の世界を垣間見た彼女は、奴婢からの脱出を決意した。
張緑水は息子を産んでいたのに家出して、妓生(キセン)になった。妓生といえば、宴席で歌と踊りを披露する女性だ。張緑水には、くちびるを動かさなくても美しい声を響かせるという特技があった。これが客に大いに受けた。
張緑水はすでに30歳を過ぎていたが、10代に間違えられこともあった。
噂を聞いた10代王・燕山君(ヨンサングン)が彼女を呼びつけた。よほど気に入ったのか、すぐに側室にした。
それ以後、張緑水は宮中でやりたい放題で、国家の富を私物化した。浪費の度が過ぎて、王朝の金庫が空になるほどだった。

最後に斬首となったのも自業自得と言える。
鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)の母は奴婢だった。
朝鮮王朝では、生まれながらにして身分が決まる。奴婢の子は奴婢になるしかない。しかし、成人した鄭蘭貞は家を飛び出して、妓生になった。その過程は張緑水と共通する部分がある。
妓生となった鄭蘭貞は、宴席で人間をよく観察した。それは、出世の見込みがある人物を見極めるためだった。
その末に目をつけたのが尹元衡(ユン・ウォニョン)だった。
彼は、文定(ムンジョン)王后の実弟である。文定王后といえば、11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正室だ。そんな文定王后に引き立てられて、尹元衡も高級官僚になっていた。
鄭蘭貞は尹元衡の妾となり、その紹介で文定(ムンジョン)王后と会い、気に入られて手先となった。その後は、どれほどの悪行に手を染めたことか。
さらに、尹元衡と共謀して彼の妻を毒殺し、その後釜にすわった。念願だった尹元衡の正妻となった鄭蘭貞は、従一品の品階を授与された。奴婢出身の女性がこれほどの肩書を持つのは奇跡としか言いようがない。

しかし、最期は悲惨だった。後ろ楯だった文定王后が1565年に絶命すると、復讐されるのを恐れて逃亡し、ついには自害に追い込まれてしまった。
張禧嬪(チャン・ヒビン)は、宮中で通訳をしていた官僚の親戚ということで女官となった。張緑水や鄭蘭貞と比べると、育ちは悪くない。しかし、周囲も驚くほどの美貌が、彼女をとてつもなく欲が深い女性にした。
張禧嬪はどれほどの美女だったのか。
朝鮮王朝の正史であった『朝鮮王朝実録』は女性の容姿についてはほとんど触れていないが、例外なのが張禧嬪だ。一度ならず何度も、張禧嬪の美貌について記している。それほど彼女の容姿は際立っていたのだ。
張禧嬪はその美貌によって19代王の粛宗(スクチョン)に見初められた。艶福家の粛宗のことだから、噂を聞いてすぐに張禧嬪を呼び入れたことだろう。
しかし、張禧嬪は粛宗が想像もできないほどの魔性を持っていた。
1688年に粛宗にとって初めての王子を産むと、彼女の上昇思考は天にものぼるほどであった。結局、粛宗は正室であった仁顕(イニョン)王后を離縁して張禧嬪を王妃に昇格させた。

ここまでは、絵に描いたようなサクセス・ストーリーだ。
しかし、粛宗の心変わりまでは張禧嬪も見通せなかった。結局は再び側室に降格になり、最後は死罪になってしまった。
ただし、息子は後に20代王・景宗(キョンジョン)として即位している。王の母になったという意味で、張禧嬪は三大悪女の中で一番の成り上がり者だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

コラム:ロコレ提供

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