「コラム」日本と韓国の物語「第14回/日延(前編)」

 

わずか4歳で日本へ!
宣祖には正妃がいたが、彼女は身体が弱かったために子供を産むことができなかった。そこで、側室から生まれた臨海君が長男として世継ぎ候補の筆頭になっていた。ただし、性格が乱暴だということで評判が良くなかった。
そんな中で1592年に朝鮮半島は豊臣軍に攻められた。臨海君は王の警護兵を募るために地方に赴いたのだが、戦乱の中で加藤清正に捕まり、そのまま幽閉されていた。


北方への撤退を余儀なくされていた朝鮮王朝軍は少しずつ態勢を立て直した。また、各地で蜂起した義兵が活躍し、明からも援軍がやってきた。こうして形勢が逆転し、朝鮮王朝は1593年4月に漢陽を取り戻した。
以後は和議が進められたが、豊臣秀吉はさまざまな条件を出す中で、朝鮮王朝の王子および高官12人を人質として送ることを要求した。その見返りとして、捕らえていた臨海君ともう1人の王子を釈放したのである。
しかし、臨海君の2人の子供は加藤清正に囚われた。それは、6歳の女子と4歳の男子だったが、その男子が後の日延である。おそらく、2人は臨海君の身代わりとして人質になったものと思われる。

臨海君の息子はわずか4歳で1593年に日本に連れてこられ、博多の法性寺で剃髪させられた。さらに、仏法の修行に入り、やがては京都でも学んで日蓮宗の僧侶となった。よほど優秀だったのだろう。一目置かれる存在となり、日延を名乗った。
日延がなぜ誕生寺に来ることになったのか。「千葉のなかの朝鮮」(編著/千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会)は、次のように説明している。
「誕生寺に残る『龍潜寺過去帳』によると、日延の安房入国は加藤清正と安房の領主里見義康の関係によっているとあります。つまり、誕生寺を参詣した清正の口添えによって、日延は里見領内の誕生寺に入山したというのです。日延の姉は宇喜多氏の重臣に嫁しているので、これもやはり加藤清正の人脈による婚姻と考えても不自然ではありません」
日延は加藤清正によって日本に連れてこられたのだが、まがりなりにも、ときの朝鮮国王の孫である。それなのに、なぜ朝鮮王朝は、終戦後に日延を帰国させるように日本に働きかけなかったのか。
それは、日延の父の臨海君に深刻な問題があったからかもしれない。

というのは、臨海君の素行の悪さは相変わらずだった。しかも、敵の捕虜になってしまったという屈辱は、臨海君を終始苦しめた。彼は酒浸りになり、宮廷の内外で問題を起こした。
宣祖の後継者を臨海君と争ったのは、二男の光海君(クァンヘグン)である。彼も宣祖の側室から生まれているが、日本が侵攻してきたときには指導者の一人として成果をあげていた。こうした能力が認められて光海君は王の後継者として揺るがない評価を得るようになった。
1608年に宣祖が世を去ったとき、後継者問題に関して中国大陸の明も憂慮を表明した。そして、調査のために明は使者を朝鮮王朝に派遣すると通告してきた。この時点で後継者は光海君にほぼ決まっていた。


ただし、光海君を支持する一派は、臨海君が世継ぎ問題で混乱を起こすことを恐れ、明の使節が来る前に臨海君を配流した。さらに、失意の臨海君は1609年に殺害されてしまう。
こうした出来事によって、日延は朝鮮半島に戻ることができなくなったのではないか。父も政権によって殺されているし、帰国すると自分の身が危なくなるのは明らかだった。以後、彼は日本で僧侶として生きていかざるをえなかったのだ。
(後編に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

 

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コラム提供:ヨブル

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2021.12.27