【時代劇が面白い】中宗はドタバタの中で異例の即位をした!

1506年、燕山君(ヨンサングン)が廃位となり、異母弟の中宗(チュンジョン)が11代王として即位した。ただし、即位式では正式な冠服を着られなかった。あまりに急で準備が間に合わなかったのだ。

 

中宗反正とは?
王となった中宗は第一声を発した。
「近年、王が道理を失い、民心が窮していたのに余は救済できなかった。しかし、幸福にも文武の臣たちが朝廷と民に対する重責を担い、大妃の指示を仰ぎ、余が即位することになった」
中宗の最初の王命は大々的な恩赦令だった。凶悪犯を除いた罪人たちの多くが恩赦を受けて釈放された。
重臣から庶民に至るまで、誰もが「万歳!」と叫んで中宗の即位を歓迎した。燕山君の暴政が終わった解放感はかくのごとく大きかったのである。

こうしたクーデターの成功は韓国で「中宗反正(チュンジョンバンジョン)」と呼ばれている。“反正”の本来の意味は“乱れを正すこと”だが、歴史的には“悪い王を追放して新しい王が即位すること”を意味している。
その“悪い王”とされた燕山君は廃位となったあと江華島(カンファド)に流されたが、2か月後に絶命した。一応は病死と伝えられたが、あまりに急な死はその後も様々な憶測を呼んでいる。

燕山君と共に放蕩のかぎりを尽くした張緑水(チャン・ノクス)は捕えられて斬首となった。庶民は遺体に向かって石を投げ、すぐに大きな石塚ができたという。その石塚が人々の恨みの甚大さを物語っている。
燕山君の正妻だった慎氏(シンシ)も廃妃となって実家に帰された。彼女の親族も燕山君の外戚として権勢をほしいままにしたが、暴君の没落にともなって悲惨な末路をたどった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

中宗(チュンジョン)は王としてどんな人生を歩んだのか?

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挫折の多かった中宗(チュンジョン)の国王人生!

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コラム提供:チャレソ
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2020.08.25