光海君(クァンヘグン)は1623年にクーデターで廃位となりましたので、暴君というイメージが付いてまわりました。しかし、歴史研究が進む中で、暴君どころか逆に政治的な業績が多い王であったという評価が出ています。
巧みな戦術
光海君は外交が卓越していました。
彼は1608年に即位しますが、統治時代に中国大陸で明と後金(後の清)との争いが激しくなりました。
明はかなり国力が衰えていました。豊臣軍に攻められたときに援軍を送ってくれましたので、朝鮮王朝は明に借りがありますが、後金は強大な軍事力を持っており、これに逆らうと国を危うくしてしまいます。
明と後金の争いからいかに朝鮮王朝を守るか。
光海君はこの両者の間に入り、巧みな外交戦術をくり広げます。
明は「豊臣軍が攻めてきたときは力を貸してあげたじゃないか。今度はそちらが援軍を送ってくれ」と要求してきますが、光海君はのらりくらりと対応し、なかなか明に向けて援軍を送りません。
最終的に光海君は少数の援軍を送りますが、同時に使者を後金にも送り、自分たちの立場をきちんと説明しています。
軍事力で劣る小国としては、明と後金のどちらが勝っても朝鮮王朝が生き残れるように立ち回らなければなりません。
これが光海君の時代の外交戦術でした。
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光海君(クァンヘグン)と仁穆(インモク)王后の激しい対立の理由は?