「コラム」連載 康熙奉(カン・ヒボン)のオンジェナ韓流Vol.70「悲劇の端宗(タンジョン)」

朝鮮王朝の歴史を書いていると、ときに暗澹(あんたん)たる気持ちになる。あまりに理不尽な形で命を奪われた人が多いからだ。その最たる人物が6代王の端宗(タンジョン)である。彼の場合はどんなふうに「理不尽」だったのか。

野望に燃えた叔父

端宗がどんな悲劇をこうむったのか。歴史をひもといてみよう。
1450年、ハングルを創製した「朝鮮王朝最高の名君」の4代王・世宗(セジョン)が、53歳で亡くなった。
後を継いだのは世宗の長男で、5代王・文宗(ムンジョン)として即位した。
36歳だった文宗は、とても学識が高い王であった。しかし、病弱であったことが災いし、わずか2年で世を去った。

6代王となったのは、文宗の長男でまだ11歳だった。
それが端宗である。
本来なら甥の王座を補佐すべきだったのが、文宗の弟の首陽大君(スヤンデグン)だ。彼は世宗(セジョン)の二男だった。
しかし、首陽大君は正反対の行動に出た。野望に燃えた彼は、虎視眈々(こしたんたん)と王座を狙ったのである。
ついに、1453年にクーデターを起こし、王朝の全権を掌握した。未成年の端宗は、国王でありながら、どうすることもできなかった。
政権の最高実力者となった首陽大君は、1455年に端宗を強制的に退位させて上王にまつりあげた。
そして、自分が王位に上がった。7代王・世祖(セジョ)の誕生だ。

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2019.05.11