200年後の名誉回復
やがて、世祖の王位強奪を批判する勢力が大きくなった。
彼らは世祖の暗殺を狙った。
しかし、計画は失敗し、首謀者だった6人は処刑された(この6人を後世の人たちは「死六臣(サユクシン)」と呼び、忠義の心を讃えた)。
世祖は、端宗が生きているかぎり、同じようなことが再び起こるのではないかと疑心暗鬼になった。
そこで、端宗を平民に降格させて僻地に流した。それでも安心できないと思った世祖は、ついに端宗を死罪にして殺した。
それは1457年のことで、端宗はわずか16歳であった。
朝鮮王朝には27人の国王がいたが、死罪になったのは端宗だけだ。このことが、死罪を命じた世祖の異様さを物語っている。
彼が歴史上で評判が悪いのも当然のことなのだ。
端宗の名誉が回復されたのは、死後200年以上が過ぎた19代王・粛宗(スクチョン)の時代だった。
その間、端宗は歴代の王と認められず、罪人扱いを受けていた。この点でも「悲劇の端宗」と言わざるをえない。
文=康 熙奉(カン ヒボン)