【時代劇が面白い】お人好しな王妃・仁顕王后/朝鮮王朝の人物と歴史19

ドラマ『チャン・オクチョン』で仁顕(イニョン)王后をホン・スヒョンが演じた。

 

仁顕(イニョン)王后は、「朝鮮王朝3大悪女」の1人である張禧嬪(チャン・ヒビン)や19代王・粛宗(スクチョン)によって、いろいろと翻弄された人物だ。彼女も息子を産んでいれば、このようなことにはならなかったのだが……。

 

王妃となった仁顕王后
仁顕王后は、粛宗の最初の王妃である仁敬(インギョン)王后が亡くなったことにより、1681年に二番目の王妃として迎えられた。彼女はとてもお人好しな性格で、それを示す話がある。
粛宗の母親である明聖(ミョンソン)王后は、粛宗が寵愛する張禧嬪の欲深さに気づいて、息子に悪影響が出る前に王宮から追い出した。仁顕王后は、粛宗が気に入っている女性が宮中にいないのはどうかと考えて、明聖王后に「張禧嬪を復帰させてほしい」と願い出る。明聖王后は、仁顕王后のあまりの人の良さにあきれるが、彼女は張禧嬪を王宮に戻そうとはしなかった。
1683年、明聖王后が41歳で世を去ると、仁顕王后は張禧嬪を王宮に戻した。しかし、張禧嬪は彼女にお礼を言うどころか冷たい態度を取った。それを見た仁顕王后は、ようやく目を覚ましたが、自分の行動が間違いだったことに気づいたときは、もう遅かった。張禧嬪が粛宗の息子を産んだのである。その後、張禧嬪の頼みを受け入れた粛宗によって、仁顕王后は1689年に廃妃となってしまう。

仁顕王后が廃妃となり、空席となった王妃の座に張禧嬪が就いた。張禧嬪は、王の息子を産んだことや王妃となったことで、どんどん傲慢になっていった。しかし、彼女の栄華は長続きしない。粛宗が淑嬪崔氏(スクピンチェシ)を寵愛するようになったのである。彼女はドラマ『トンイ』の主人公になった人物だ。
淑嬪崔氏は、粛宗に仁顕王后の復帰を願う。この時点で、張禧嬪への愛を完全に失っていた粛宗は、淑嬪崔氏の願いを受け入れる。それによって、一度は王妃となった張禧嬪は、側室に戻されてしまう。
こうして1694年に再び王妃となった仁顕王后。しかし、彼女は後継ぎとなる息子を産んでいなかったため、息子を産んでいる張禧嬪より立場はとても弱かった。一方の張禧嬪は、仁顕王后を警戒していた。もし、仁顕王后が王の息子を産めば、自分の息子が王になれなくなってしまうからだ。
張禧嬪は自分の部屋の近くに神堂を建てると、怪しげな者たちを呼んで呪詛を行なった。それが直接の原因かどうかは不明だが、仁顕王后は1701年に亡くなってしまう。

その後、淑嬪崔氏は、張禧嬪が呪詛を行なっていたことを知らせる。それを聞いた粛宗は激怒して、「仁顕王后が病気になってから一度も見舞いに来なかった」「悪口ばかり言っていた」「呪詛を行なった」ということを理由に、張禧嬪に死罪を言い渡した。罪人の子が王になることは本来ならありえないので、張禧嬪の息子も世子(セジャ)から外されてもおかしくはなかったが、粛宗はそうしなかった。
そのため、張禧嬪の子が粛宗の後継ぎとして20代王・景宗(キョンジョン)となるが、1724年、在位わずか4年で亡くなってしまう。その景宗の後を継いで21代王・英祖(ヨンジョ)となったのは、淑嬪崔氏の子である。
仁顕王后にとって、自分の後継ぎを産むことができなかったことは、悔しかったと思う。もし、彼女が後継ぎとなる息子を産んでいたら、どのような歴史になっていたのだろうか……。

文=康 大地(コウ ダイチ)

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コラム提供:チャレソ

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2021.09.14