「コラム」日本と韓国の歴史を振り返る/第5回「蘇我氏の天下」

物部氏が滅び、蘇我馬子(そがのうまこ)には、もう誰も逆らえなくなった。たとえ、天皇でさえも……。ただし、用明天皇の後を継いだ崇峻天皇は少なからず蘇我馬子に反感を持っていた。たまたま、猪を献上した者がいた。その猪を見ながら、崇峻天皇は、「猪の頸を斬るように、憎い人間を斬ってみたいものだ」と口走った。

推古天皇の即位

この発言を人づてに聞いた蘇我馬子は、天皇に嫌われていると悟った。さらには、天皇の周囲で武器を集めているという情報を得た。
「先に動かなければ、こちらがつぶされる」
危機感を持った蘇我馬子は、592年11月に崇峻天皇の命を奪った。空いた皇位に上がったのが推古天皇である。
この即位にともなって推古天皇の甥にあたる聖徳太子(厩戸皇子)が抜擢されて、摂政を担うことになった。
この聖徳太子と推古天皇は蘇我氏の血を受け継いでおり、最高執政官となる大臣(おおおみ)は蘇我馬子だった。
政権の首脳はみな蘇我氏の系統となり、この一族は栄華を誇った。
蘇我氏は百済(ペクチェ)からの渡来人たちによって支えられていた。百済が日本に仏教を伝えたときも、その恩恵を一番受けたのが蘇我氏だった。
仏教が広がるということは、仏像を作る技術や寺を作る技術などがともなってくる。当時の日本からすれば、それはまだ経験したことのない大変な事業であった。同時に利権も関わってくるのだが、それを利用しようと考えたのが蘇我氏だった。

蘇我氏が物部氏を駆逐したあと、馬子、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と代が引き継がれ、蘇我氏の統治は続いた。
彼らの基盤を支えたのが渡来人の存在だった。
政治制度の確立から土木技術の活用まで、渡来人は土地と住民を統治する技術をもっていた。
特に、文字に関わる作業は渡来人が特殊な力を発揮した分野であった。
また、百済との外交関係に積極的だったことから、蘇我氏そのものが百済の出身ではないかという説もある。
(ページ2に続く)

2021.04.03

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